第155話 摩訶般若波羅蜜その二十六 私は神を信じない

 「しかあればすなはち、仏薄伽梵ぶつばがぼんは般若波羅蜜多なり、般若波羅蜜多は是諸法ぜしょほうなり。この諸法は空相なり、不生不滅ふしょうふめつなり、不垢不浄ふくふじょう不増不減ふぞうふげんなり」

 そういうことであるからすなわち、釈尊は般若波羅蜜多(智慧の完成)であり、般若波羅蜜多(智慧の完成)とはこの空間、大宇宙である。この空間(この現実世界の森羅万象)は(言葉で「こういうもの」と表現できない。敢えて言えば)「空相」であり、発生したり消滅したりするものではない、人間の尺度で汚いとかきれいだとかいうものでもなく、増えたり減ったりするものでもない。

 人間はこの現実の空間、大宇宙の中で瞬間瞬間を生きている。このことが真実・真理を実現・実証することだ。

 この現実世界、大宇宙はありのままの真実・真理なのだから、不生不滅であり、不垢不浄であり、不増不減なのだ。人間の脳味噌によって増えたとか減ったとか、汚いとかきれいだとかいじくりまわしてみたところで真実・真理には到達できない。むしろどんどん遠ざかってしまう。

 坐禅した身心は智慧の完成、般若波羅蜜多の状態なのだから誤ったことはしない。と言うより「できない」。この状態は釈尊と全く同じ状態なのだ。

 釈尊は人間である。キリスト教の神のような存在ではない。

 私は神というものの存在を信じることはできない。だから神を信仰することはできない。

 帝釈天と具寿善現との問答が出てきた。帝釈天は仏教を守護する神と言われている。詳しくは知らないけど帝釈天は仏教以前からインドに伝わっていた神らしい。真実・真理は神も従うものだから、仏教においては神も教えを聞くということになる。

 仏教の教えを広めるために、インドに古くから伝わっている神を使った方が伝わりやすいから、例え話というか御伽話のように帝釈天を使っているに過ぎないと思っている。

 仏教は徹底的に現実を対象としている。事実を対象としている。人間は現実の世界の中で生きているのだから当然だ。そこを曖昧にしてはいけない。神秘的な能力とか現象を言う奴らは金儲けが目的なのだから、「仏教っぽく」見えても信じてはいけない。

 最後に念のため書いて置くと、今回の部分は般若心経はんにゃしんぎょうを引いている。

 般若心経の一節「是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減」だ。

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