第154話 摩訶般若波羅蜜その二十五 坐禅していればいい
「釈迦牟尼仏言、舍利子、是諸有情、於此般若波羅蜜多、応如仏住供養礼敬。思惟般若波羅蜜多、応如供養礼敬仏薄伽梵。所説以者何。般若波羅蜜多、不異仏薄伽梵、仏薄伽梵、不異般若波羅蜜多。般若波羅蜜多、即是仏薄伽梵。仏薄伽梵、是般若波羅蜜多。何以故。舍利子、一切如来応正等覚、皆由般若波羅蜜多得出現故。舍利子、一切菩薩摩訶薩、独覚、阿羅漢、不還、一来、預流等、皆由般若波羅蜜多得出現故。舍利子、一切世間十善業道、四静慮、四無色定、五神通、皆由般若波羅蜜多得出現故。
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釈尊は言った。「舍利子(仏十大弟子の1人)よ、この色々なたくさんの生きるものはこの智慧の完成において仏がこの空間にいると思い供養し敬って礼拝しなさい。智慧の完成を思うことはまさに釈尊(仏薄伽梵)を供養し敬って礼拝するようにしなさい。どうしてかといえば、智慧の完成は釈尊と別のものではない。智慧の完成はすなわち釈尊である。釈尊は智慧の完成である。何故か。舍利子よ一切の均衡のとれた正しい状態というものはみな智慧の完成から出現することができるからである。舍利子よ。すべての薩摩訶薩、独覚、阿羅漢、不還、一来、預流等の状態(その状態となった人間)はみな智慧の完成から出現することができるからである。舍利子よ。すべての一般社会の十善業道、四静慮、四無色定、五神通の状態(その状態となった人間)はみな智慧の完成から出現することができるからである。
ここに出てくる仏教用語は何となく知っているという程度で詳しくは知らない。知ろうとも思わない。仏教用語辞典とか見てもちんぷんかんぷんだ。これらの用語すべてに精通し理解する時間は私にはない。それに用語の意味を知ったとして「生きる」ことに直結するとは思えない。直結するのは坐禅することだけだ。坐禅して正法眼蔵を読んでいればいい。
坐禅することによって今この瞬間身心が大宇宙の真実・真理と一体となる。それは釈尊と同じ状態、仏と言われる方々と同じ状態になることだ。
虚空、この空間こそが真実・真理なのだ。坐禅した身心とは智慧が完成した状態。
色々な仏教用語はあるけれど、つまるところ坐禅していればよいのだと思っている。
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