第156話 摩訶般若波羅蜜その二十七 釈尊と同じ

 「この般若波羅蜜多の現成せるは仏薄伽梵の現成せるなり。問取すべし、参取すべし。供養礼敬くようらいきょうする、これ仏薄伽梵に奉覲承事ぶごんじょうじするなり。奉覲承事の仏薄伽梵なり。」

 この智慧の完成が実現するということは釈尊と同じ状態となるということである。いろいろと問い追求しなさい、坐禅し修行して自分のものとしなさい。智慧の完成、般若波羅蜜多を供養し礼拝することは釈尊にお会いしてその教えに従うということである。釈尊にお会いしてその教えに従うということは釈尊と同じ状態になるということである。

 ここのところは、坐禅を毎日続けるということが智慧の完成であり、坐禅した身心は釈尊そのものなのだということだと思っている。

 前回も書いたが、釈尊は人間だ。そして釈尊の教えに従って修行、坐禅すれば釈尊と同じ真実・真理を実現・実証することができるのだ。

 釈尊は偉大だ。尊敬する。しかし、神秘的な人間を超越した別世界の存在ではない。我々は坐禅さえすれば釈尊と同じ状態になれるのだ。そうでなければ救いにならないではないか。

 世の中の怪しげな「宗教と称するもの」は教祖とか、団体の代表をとかいう人間を神格化しひたすら問答無用に盲目的に服従しているように見える。

 私には異常としか思えない。普通の人間が普通に生きられるようにする、真実・真理に従って生きられるようにすることだけが宗教の目的だと私は思っている。

 何故多額の寄付がいるのか?何故集団の経済的利益のために行動しなければいけないのか?そんなものは経営の問題であって宗教の問題ではない。

 私はそう思っている。だから一生坐禅し正法眼蔵を読んでいこうと思う。

 念のために言っておくけど、あくまで「個人の見解」です。本気で怒って文句など言わないでね。人それぞれ自分の思うように生きりゃいいんだから。

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