第135話 摩訶般若波羅蜜その四 仏教用語の悪用

 「また四枚の般若あり、苦集滅道くじゅうめつどうなり。」

 苦諦、集諦、集諦、道諦を四諦したいといい仏教では非常に重視されるものという。

 この苦集滅道について岩波文庫の水野弥穂子氏の脚注は以下のとおりである。

 「三界は皆苦であり(苦諦)、この苦は煩悩と善悪諸業の集まりであり(集諦)、煩悩と善悪の因を滅すれば寂滅の涅槃に入り(集諦)、滅に至る修行が八正道である(道諦)」

 私は仏教を学問的に勉強したことはない。曹洞宗の宗門とも一切関係ない。なので申し訳ないのですが、この脚注の意味はわかりません。

 この世は苦である。そうなのかな?苦しい、悩むということはあるけれど年がら年中苦しんでいる訳じゃない。楽しいこと嬉しいこともあるだろう。この世界が苦に満ち溢れている、この世は苦だなどというから怪しげな団体が生まれてあこぎなことをすることが後を絶たないんじゃないか。

 苦は煩悩と善悪諸業の集まりであるというのもよくわからない。煩悩って欲望のことなのかな?でも人間欲望がないと生きていけない。食欲がなきゃ生命は維持できない。性欲がなきゃ人類は滅亡する。それにより良い暮らしがしたいという欲望が社会を発展進歩させてきたんじゃなかろうか。

 煩悩を滅するってそんなこと出来るんだろうか。煩悩の無い人間になる、欲望の無い人間になるなんて絶対に不可能だ。この不可能なことをやれるようにならなきゃいけないとか、こうすればできるとか言うのは宗教の皮を被って金を巻き上げる奴らの常套句だ。仏教用語を悪用する奴が後を絶たない。仏教界はきちんと対応すべきじゃないのかな?

 煩悩を滅するための方法が八正道という。八正道というのは正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定のことだという。詳しくはここでは書けないけど、「それはそうしないといけないですね」とは思うものの、私が直面して七転八倒していた時にこんなことを言われても「何を暢気なことを言ってるんじゃ」としか思えなかった。

 西嶋和夫氏の四諦の解釈は学問の世界では異端視というか無視されてるかもしれない。宗門でもどういう扱いをされているか知らない。

 けれど私には腹に落ちるものだった。理解できた。生きていく上で力になった。

 西嶋氏の解釈は私は以下のように理解している(西嶋氏の本位とは違うかもしれないが)。

 苦は主観、集は客観、滅は主観と客観がぶつかる所つまり現実の世界での行動、そしてその3つを統合して現実の世界をありのままに把握し真実・真理を実現・実証することが道(仏道)。

 自分の身に降りかかってきたこと、世の中で起こっていることはこの西嶋氏の四諦の解釈で説明できると私は思っている。

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