第127話 現成公安その二十六 理屈ばかりじゃしょうがない

 「麻浴山宝徹まよくざんほうてつ禅師、あふぎをつかふちなみに、僧きたりてとふ、風性常住、無処不周ふうしょうじょうじゅう、ましょふしゅうなり、なにをもてかさらに和尚おしょうあふぎをつかふ。

 師いはく、なんぢただ風性常住をしれりとも、いまだところとしていたらずといふことなき道理をしらずと。

 いはく、いかならんかこれ無処不周底むしょふしゅうちの道理。

 ときに、師、あふぎをつかふのみなり。

 僧、礼拝す。」

 麻浴山宝徹禅師が扇を使っていた。そこに一人の僧がやってきて質問した。「風性常住無処不周、風というものは常に存在しておりあまねく至らない処はないのに、なんで和尚さんは扇を使うのですか」

 宝徹禅師は答えた。「お前さんは風というものが常に存在しているということは知っているが、処として至らないということはないということの本当の意味を知らない」と。

 そこで僧は言った「では無処不周ということのほんとうの意味するところとは何ですか」。

 その時宝徹禅師はただ扇を使ってあおいでいるだけだった。

 僧はその様子を見て真実・真理を掴んだので礼拝した。

 仏教は観念論、理屈ばかりの世界ではない。仏教はこの大宇宙の現実の中でいかに真実・真理に従って生きていくか、真実・真理を実現・実証するかということを説き、教えるものだ。

 風というものの性質としては常に存在してどこにでも至る。それはそうだけれど、暑ければ自分で扇であおいで風を起こして涼むしかない。

 理屈をいくらこね回しても、目の前の現実は解決しない。自ら行動するしかないのだ。

 大宇宙の真実・真理も常に存在してどこにでも隅々まで行き渡っている。しかし、行動しない限り真実・真理は実現しない。

 念のために書くけれど、行動といってもむやみやたらと何かすることだけが行動ではない。じっと我慢すべきときは我慢する。これも行動だ。

 今の世の中、頭でっかちというか理屈は溢れているけれど、現実に対して地道に着実に一生懸命行動するということが軽く扱われ過ぎていないだろうか。

 目立つことが最優先みたいに見えてしかたがない。

 そんな薄っぺらなことじゃ、この先が思いやられる。

 坐禅して真実・真理を体得しましょう。

 

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