第117話 現成公安その十六 人は誰でも真実・真理となれる

 「人のさとりを罣礙けいげせざること、滴露てきろの天月を罣礙せざるがごとし。ふかきことはたかき分量なるべし。時節の長短は、大水小水だいすいしょうすい撿点けんてんし、天月の広狹こうきょう辦取はんしゅすべし。」

 (どのような人であっても)人が悟りを得るのを邪魔するものがないことは一滴の露が天の月を映すことことを邪魔するものがないことと同じである。一滴の露が月を映すその水の深さは天の月の高さと同じ尺度なのである。悟りの時節が長いとか短いとか言うのは、大きな水とはなにか小さな水とは何かを良く調べ、天の月の広さ狭さをじっくりと考えてみるとよい(悟りは瞬間瞬間の積重ねであるから時間が長い短いという対象ではない。大海の水と一滴の露も水であって大小の問題ではない。月は月であって広い狭いと議論する意味がない)。

 坐禅して大宇宙の真実・真理を実現・実証することは誰にでも可能なことである。坐禅しさえすればいい。その時、時間の長短、物事の大小、広狭など相対的な尺度はすべて消え去ってしまい、ただ真実・真理の状態があるのみである。そしてそれが本来の姿なのだ。

 今の世の中目先のことでああでもないこうでもないと大騒ぎしている。しかし本質が語られているだろうか。刹那的な局所的な行き当たりばったりの言論に溢れている。

 そもそも人間はどう生きるべきなのか、人間とは何かという根源を置き去りにして、発生した事象に刹那的に反応するばかりではどうしようもなかろう。

 人間の生き方とはこうだなどと決めつけることはできない。ただ言えることは瞬間瞬間真実・真理に基づいて行動する、それのみが真の生き方であるということだ。真実・真理は人間の言語で表現できるものではない。坐禅して身心で体得するしかない。

 仏教は「こう生きなさい」「こうすればよい」というハウツー本ではない。具体的な生き方は一人一人が自力で見つけていくしかない。

 正しい身心、大宇宙の真実・真理と一体となった身心であれば間違うことはない。そのためには坐禅するしかないのだ。

 

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