第94話 辦道話その八十三 第二人なし

 「とうていはく、乾唐けんとう古今ここんをきくに、あるいはたけのこゑをききてどうをさとり、あるいははなのいろをみてこころをあきらむる物あり、いはむや、釈迦大師は、明星みょうじょうをみしときどうしょうし、阿難尊者は、刹竿せっかんのたふれしところに法をあきらめしのみならず、六代よりのち、五家のあひだに、一言半句いちごんはんくのしたに心地しんじをあきらむるものおほし。かれらかならずしも、かつて坐禅弁道せるもののみならむや。

 しめしていはく、古今に見色明心けんしきみょうしんし、聞声悟道もんじょうごどうせし当人とうにん、ともに弁道に擬議量ぎぎりょうなく、直下ちょっかに第二人なきことをしるべし。」

 第十七問答。

 問。インドや中国の昔から今までに伝わっていることを聞くと、竹に小石が当たった音を聞いて真実・真理を実現・実証し(香厳撃竹きょうげんげきちく)、あるいは桃の花が咲いている様子を見て真実・真理を実現・実証した者(霊雲見桃華れいうんとうかのけん)がいる。いわんや、釈尊は明けの明星をみて真実・真理を実現・実証し、阿難尊者は説法をするときに立てる旗を倒したときに真実・真理を実現・実証した。それのみならず、六祖大鑑慧能禅師以来5つの禅を伝える宗派があるが、それらの中でちょっとした一言、言葉で真実・真理を実現・実証した者が多い。彼らは必ずしも坐禅して仏道を学んだ者達だけではのではないか。

 答。古今に世界の光景を見て真実・真理を実現・実証し、音を聞いて真実・真理を実現・実証した人は、すべて坐禅することに何の推し量りもなく、ただひたすらこの瞬間に大宇宙と一体となった自己があるのみであると知ったということを知らなければいけない。

 真実・真理を知りたい知りたいとうろうろおろおろする必要はない。ああではないかこうではないか、自分は自分はと焦る必要はない。「弁道に擬議量なく」である。

 大宇宙の中にはただ一人の「自己」が存在するだけだ。頭の中であれやこれや、こうしたいああしたいと妄想しているうちに、自己を見失い、いろんな自己が存在するような迷いに憑りつかれてしまう。しかし坐禅した瞬間、本来唯一の自己を取り戻すことができる。本来の面目に戻る。直下に第二人なしである。

 坐禅している身心は本来真実・真理の状態なのだけれど、時として脳味噌の働きでそれに気づかないことがある。しかし、それは箒で掃いた小石が竹にぶつかった音、一面に咲いている桃の花を見ること、などちょっとしたことで自分が大宇宙そのものであり、このありのままの世界の素晴らしさ、真実・真理の状態を体得するのだ。

 だから皆さん、坐禅しましょう。

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