第93話 辦道話その八十二 「自分」という枠を取っ払え

 「ここに則公懆悶そうもんして、すなはちたちぬ。中路ちゅうろにいたりておもひき、禅師はこれ天下の善知識、又五百人の大導師なり。わが非をいさむる、さだめて長処あらむ。禅師のみもとにかへりて懺悔礼謝さんげれいしゃしてとうていはく、いかなるかこれ学人の自己なる。

 禅師のいはく、丙丁童子来求火ひょうちょうどうじらいきゅうかと。

 則公、このことばのしたに、おほきに仏法をさとりき。

 あきらかにしりぬ、自己即仏の領解りょうげをもて仏法をしれりといふにはあらずといふことを。もし自己即仏の領解を仏法とせば、禅師さきのことばをもてみちびかじ、又しかのごとくいましむべからず。ただまさに、はじめ善知識をみむより、修行の儀則を咨問しもんして、一向に坐禅弁道して、一知半解はんげを心にとどむることなかれ。仏法の妙術、それむなしからじ。」

 ここで則公は胸の内が動揺していらいらして、そのまま立ち去ってしまった。が、その途中で思った。「法眼禅師は天下に知られた優れた指導者であり、門下500人を導く偉大な師である。自分の非を諫めたのにはきっと意味のあることなのだろう。」

そこで法眼禅師のもとに帰り懺悔し謝罪をして問いかけた。「仏教を学ぶ人間の自己とはいかなるものでしょうか」

 法眼禅師は答えた「丙丁童子がやってきて火を求める」。

 則公はこの言葉によって仏法を大いに理解した。

 明らかに知ることができる。自己=仏であるとだけ知っていることは仏法を知るということではないことを。もし自己=仏と理解することを仏法だとするならば、法眼禅師は先ほどのような言葉を使って指導することはなかっただろうし、あのように戒めることもなかったろう。ただまさに、優れた指導者に出会った初めの時から修行の仕方を質問して、ただひたすら坐禅し仏道を学び、一つの知識や中途半端な理解を心に留めてはいけない。そのようにすれば仏法の素晴らしい力は虚しいことにはならない。

 則公の最初の「丙丁童子来求火」は自分の頭の中の理屈でしかない。自分で脳味噌でこねくり回して自己満足していたに過ぎない。

 しかし二度目法眼禅師の下に立ち還って得た「丙丁童子来求火」は、真実・真理を知りたいという、本当のことを知りたいという身心で受け止めたものなのだ。自分というような小さな枠が取っ払れて、大宇宙の中で主観と客観を超越したありのままのものとして受け止めたのだ。

 仏教は大宇宙の無限の大きさと一体となることを求める。そしてそれは坐禅することによって実現される。

 

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