第91話 辦道話その八十 自他の見をやめよ

 「しめしていはく、このことば、もともはかなし。もしなんぢがいふごとくならば、こころあらむもの、たれかこのむねををしへむに、しることなからむ。

 しるべし、仏法はまさに自他の見をやめて学するなり。もし、自己即仏としるをもて得道とせば、釈尊むかし化道にわづらはじ。しばらく古徳の妙則をもて、これを証すべし。」

 第十六問答の答え。

 問のような言葉はもっとも儚い意味のないものだ。もしお前さんが言うように自分自身の心がすなわち仏であるということならば、そのように教えれば誰でも理解しないということはないだろう。

 知らなければいけない。仏法は自、他の区分をなくして学ぶのである。もし、自己=仏ということを知るならば真実・真理を体得できるというならば、釈尊がその教えを伝えるのに大変な苦労をされることはなかったろう。ここでは昔の先達の事例をもってこれをはっきりさせよう。

 ここでは「仏法はまさに自他の見をやめて学するなり」が最も重要だと思う。

 自=主観、他=客観と言ってもいいかもしれない(西嶋和夫氏はそう解釈されておられると思う)。

 生きるということは、主観だけでは生きられない。といって客観だけでは何をどうして生きればいいかわからない。主観と客観が、自分自身と現実世界が融合するところに生きるという状況が生まれる。

 坐禅すればその瞬間にこの状況になる。頭でいくら考えても無駄である。頭で考えるということは「主観」そのものだからだ。主観だけでは解決する訳がない。

 今の世の中、主観を大声で喚き散らす人々に満ち溢れているように見えて仕方ない。主観に囚われ酔っている人は気分よく喚いているけれど、それは異常なことなのだ。シャブ中がラリっているのと同じである。

 坐禅して「自他の見をやめて」もらえないでしょうか。正気に戻りましょう。

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