第92話 辦道話その八十一 観念論はだめ

 「むかし、則公監院といふ僧、法眼禅師の会中えちゅうにありしに、法眼禅師とうていはく、則監寺そくかんす、なんぢわがにありていくばくのときぞ。

則公がいはく、われ師の会にはむべりて、すでに三年をへたり。

禅師のいはく、なんぢはこれ後生こうせいなり、なんぞつねにわれに仏法をとはざる。

則公がいはく、それがし和尚をあざむくべからず。かつて青峰の禅師のところにありしとき、仏法におきて安楽のところを了達せり。

禅師のいはく、なんぢいかなることばによりてか、いることをえし。

則公がいはく、それがしかつて青峰にとひき、いかなるかこれ学人がくにんの自己なる。青峰のいはく、丙丁童子来求火ひょうちょうどうじきたってひをもとむ

法眼のいはく、よきことばなり。ただしおそらくはなんぢ会せざらむことを。

則公がいはく、丙丁ひょうちょうは火に属す。火をもてさらに火をもとむ、自己をもて自己をもとむるににたりと会せり。

禅師のいはく、まことにしりぬ、なんぢ会せざりけり。仏法もしかくのごとくならば、けふまでつたはれじ。」

 事例の紹介。

 昔、監院という寺の役職についている則公という僧がいた。法眼禅師の門下にいたときに、法眼禅師が問いかけた。「則監寺そくかんす(監寺と監院は同じ)、お前さんは私のところに来てどのくらいになるのか」

 則公「私は師の下に来て3年になります」

 禅師「お前さんは後輩だ。なぜ常に私のところに来て仏法について質問をしないのか」

 則公「私は和尚に嘘はつけません。かつて青峰禅師の下にいたときに仏法の安楽に辿り着いたのです」

 禅師「お前さんはどういう言葉で安楽に入ることができたのか」

 則公「私は青峰禅師に問いました。仏法を学ぶ人間の自己とはいかなるものでしょうか。青峰禅師はおっしゃいました「丙丁童子がやってきて火を求める」と」

 禅師「良い言葉である。けれどおそらくお前さんは理解できていないだろうな」

 則公「ひのえひのとは火のグループに属しています。火をもって火を求める、つまり自己をもって自己を求めるのと似ていると理解しました」

 禅師「はっきりとわかった。お前さんは理解できていない。仏法がお前さんが言うようなものならば今日まで伝わらなかったろう」

 このエピソードはこの後も続く。詳しくはこの後に展開されるけれど、簡単に言えば、観念論で、理屈であーだこーだ言ってもそれは仏法ではないということ。

 主観で理屈をこね回す、脳味噌でいじくり回すのは仏法ではない。

 観念論、主観を否定しているのではない。それだけでは全くだめだということ。

 今の世の中、観念論、主観ばっかり。辟易する。坐禅しましょう。

 

 

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