第90話 辦道話その七十九 自己満足

 「とうていはく、あるがいはく、仏法には、即心是仏そくしんぜぶつのむねを了達りょうたつしぬるがごときは、くちに経典きょうでんじゅせず、身に仏道を行ぜざれども、あへて仏法にかけたるところなし。ただ仏法はもとより自己にありとしる、これを得道の全円とす。このほかさらに他人にむかひてもとむべきにあらず。いはむや坐禅弁道をわづらはしくせむや。」

 第十六問答の問いの部分。

 ある者が言っていることには、仏法において即心是仏つまり今のこの心が仏であるということを理解したならば、口で経典を唱えることなく、身をもって修行(坐禅)することが無くても、まったく仏法に不足していることはない。仏法は元々自分自身にあると知ること、これを仏道を得て完全な状態とする。これ以外にさらに他人に求めることは必要ない。ましてや坐禅し仏道を勉強するなどという面倒なことをする必要はない。

 大宇宙の真実・真理は自分自身にある。だから「即心是仏」だと理解できればそれで十分だというのはもっともらしく思える。

 しかしこれはまったく仏教、仏法がわかっていないということだ。このあと道元禅師が答えを示されるが、私なりの考えを書いておきたい。

 自分は仏である、完全である。だからほかに何を求める必要もない。坐禅など修行は要らない。これは単なる自己満足である。主観的、抽象的なひとりよがりだ。

 「自分が」という時点で、主観に囚われている。仏教は主観、客観が一体となったところにある。難しいようだけれど、坐禅してみればすぐにわかる。大宇宙の中に自分というものがぽつねんと存在している。このとき宇宙と自分の境目はなくなっている。「自分が、自分が」という意識に囚われている限り真実・真理に到達することはできない。独りよがりの自己満足に浸ることしかできない。

 今の世の中、独りよがりの自己満足に浸っている人間に溢れている。坐禅して本来の姿に戻りましょう。

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