第72話 辦道話その六十一 死と霊魂 質問の続き

 「このむねをしるものは、従来の生死ながくたえて、この身をはるとき性海しょうかいにいる。性海に朝宗ちょうそうするとき、諸仏如来のごとく妙徳まさにそなはる。いまはたとひしるといへども、前世ぜんぜ妄業もうごうになされたる身体しんだいなるがゆゑに、諸聖しょしょうとひとしからず。いまだこのむねをしらざるものは、ひさしく生死にめぐるべし。しかあればすなはち、ただいそぎて心性の常住なるむねを了知すべし。いたづらに閑坐かんざして一生をすぐさん、なにのまつところかあらむ。

かくのごとくいふむね、これはまことに諸仏諸祖の道にかなへりや、いかむ。」

 第十問答。質問の続き。一般によく言われていることが書かれている。この後道元禅師は否定をする

 (霊魂は不滅であるということ)このことを知る者は生きたり死んだりという繰り返しがながく絶えて、この肉体が終わりを迎える時、本体であるところの霊魂の世界に入る。霊魂の世界に流れ込むとき諸仏如来の素晴らしい性質がまさに備わるのである。このことをたとえ知っていたとしても今現在のこの身心はこれまでの悪い行いによって穢れているから聖人と言われている人たちとは同じにならないのだ。霊魂は不滅であるということを知らないものは、長い期間生と死を繰り返すであろう。そういうことであるから、ただひたすら霊魂は永遠であるということを理解しなければいけない。無駄にのほほんと坐禅して一生を過ごそうという、その結果何が待っているというのか。このように言うことは、真に仏と言われた方々の教えに適っているのかどうか、いかがか。

 肉体は滅んでも霊魂は残る。霊魂は不滅である。そんな話をよく聞く。成仏すれば霊魂は素晴らしい美しい穏やかな世界に入って行くとかいう。だから生きている間は良い行いをして静寂安心したあの世に魂が行くようにしましょう。そういうことを言う。

 生きてる間悪いことをしないようにということならばそれはそれでいいかもしれない。

 けれどあの世で安楽に生きられるためにこの世を生きるって私には理解できない。人間はこの瞬間瞬間を必死に一生懸命生きねばならない。瞬間瞬間をどう生きたらいいのか。それを教えてくれるのが宗教ではないのか。死んだ後のことをどうこう言われたって今この瞬間に役には立たないだろう。生きるってそんな悠長な生易しいことではない。

 霊魂が永遠かどうかなんて、今生きているこの身心によってどうでもいい。永遠だからってそれがどうしたとしか思わない。

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