第71話 辦道話その六十 死と霊魂

 「とうていはく、あるがいはく、生死しょうじをなげくことなかれ、生死を出離しゅつりするにいとすみやかなるみちあり。いはゆる心性しんしょう常住じょうじゅうなることわりをしるなり。そのむねたらく、この身体は、すでに生あればかならず滅にうつされゆくことありとも、この心性はあへて滅する事なし。よく生滅しょうめつにうつされぬ心性わが身にあることをしりぬれば、これを本来のしょうとするがゆゑに、身はこれかりのすがたなり、死此生彼しししょうひさだまりなし。しんはこれ常住なり、去来現在こらいげんざいかはるべからず。かくのごとくしるを、生死をはなれたりとはいふなり。」

 第十問答。この問答は特に重要なところだと思う。生死とは何か。そして霊魂というものをどう考えるのかが書かれている。この部分は質問の前半部分で生死と霊魂について一般に考えられていることが書かれている。道元禅師はこの後、この考えを完全に否定する。

 質問して言うことには、ある者が言うことには、生死を嘆くことはない。生死を超越するのにとても速くできる方法がある。いわゆる心性つまり霊魂は常にあるもので不滅であるという道理を知れば良いのだ。その要旨はというと、この身体は既に今生きているのであれば必ず消滅する方向に進むけれども、この霊魂は消滅するということは絶対にない。生から滅に移ることがない霊魂がこの自分の体の中にあることを知るならば、この霊魂が本来の自分の本質だということになる。肉体は仮の姿であり、ここに生まれあそこで死ぬというように常に変化し定まったことはない。霊魂は変化することなく永遠であるから過去・現在・未来において変化することはない。このように知ることを生死を超越したというのである。

 生死は人間にとって大きな課題だ。人間は必ず死ぬ生まれた瞬間に死に向かって進み始める。必ず起こることをどのように考えどのように対応するか極めて重要だ。

 成仏とか言って霊魂が極楽に行くようなことを坊さんが言うが、道元禅師はそのようなことは一切おっしゃっていない。

 肉体は滅んでも霊魂、魂は不滅だ。こういう話はよく聞く。そしてこのように考えるのが仏教、仏法だと考えられていることが多いのではないだろうか。

 だが、この考え方は仏教、仏法ではない。

 

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