第55話 辦道話その四十四 文字を数える学者

 「又、仏法を伝授することは、かならず証契しょうかいの人をその宗師しゅうしとすべし。文字もんじをかぞふる学者をもてその導師とするにたらず。一盲の衆盲しゅもうをひかんがごとし。いまこの仏祖正伝の門下には、みな得道証契の哲匠てつしょうをうやまひて、仏法を住持せしむ。かるがゆゑに、冥陽みょうよう神道しんとうもきたりし帰依きえし、証果の羅漢らかんもきたり問法もんぽうするに、おのおの心地しんじ開明かいみょうする手をさづけずといふことなし。余門にいまだきかざるところなり。ただ、仏弟子ぶつでしは仏法をならふべし。」

 また仏法を伝授するためには必ず自らの身心で大宇宙の真実・真理を受けとめ一体となっている人を師としなければいけない。経典を見て文字の数を数えているような「学者」は真実・真理に導く師には到底ならない。そんなことをすれば何もわかっていない右も左もわからないようなものが教えを必要とする人々をどこか訳のわからない所に連れて行こうとするようなものである。釈尊直系の門下のものは、みな自らの身心で大宇宙の真実・真理を受けとめ一体となっている人を師として敬って、仏法をしっかりと自分のものとするのだ。そういうことであるから目には見えない神、目に見える神も仏法に帰依するのであり、小乗の真実を得た阿羅漢と言われる人々もやってきて問答して学ぼうとするのである。これらの者たちに大宇宙の真実・真理を明らかに示すために手を差し伸べることをしないなどということは無い。このようなことは仏法以外には聞いたことのないことである。釈尊直系の弟子はひたすら仏法を学ばなければいけない。

 仏教は大宇宙の真実・真理を説いている。人間は本来大宇宙の真実・真理なのだということを説いている。だから本来の姿に立ち戻るために坐禅せよと教えている。坐禅は誰でも今すぐに始めることができる。難行苦行など必要ない。誰にでも仏法の門は開いているのだ。

 この身心を使って坐禅することに尽きるのだ。このことが尊いのだ。絶対の尊さだ。坐禅をするという行動無くして大宇宙の真実・真理は永久にわからない。

 けれど今は言葉のみ、理屈ばかり言っている人間が溢れかえっている。しかしこのような人間は「文字もんじをかぞふる学者」でしかない。このような人間にくっついて行ったらとんでもないことになる。しかし残念ながら「導師とするにたらず」というような人間が幅を利かしている。このままでは危ない。人類の未来が危ない。

 坐禅しましょう。

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