第53話 辦道話その四十二 言葉ではない

 「しめしていはく、しるべし、仏家ぶっけにはきょう殊劣しゅれつを対論することなく法の浅深せんじんをえらばず、ただし修行の真偽をしるべし。草花山水そうけさんすいにひかれて仏道に流入るにゅうすることありき、土石沙礫どしゃくしゃりゃくをにぎりて仏印ぶっちん稟持ひんじすることあり。」

 第四問答。答えその一。

 答えて言うことには、知らなくてはいけない。仏教、仏道を学ぶときに教えが優れているとか劣っているとかを議論することはなく、その教えの説いているところが浅いとか深いとかいう選別をすることはしない。ただただ修行が本物であるか、真の修行であるかを知らなければいけない。草や花や山や水に導かれて仏道の中に入り込めたということがあり、土や石や砂を握って真実の教えを身に着けたということがあるのだ。

 仏教は大宇宙の真実・真理をこの身心で実現することである。具体的なこの生身の身心で坐禅することで実現、体得することだ。

 だから文字に書かれていることを読んであーだこーだいうことは仏教ではない。言葉でどんなに耳障りの良い威勢のいいことを言ったところでそれだけでは何の意味もない。何の役にも立たない。

 ただひたすら坐禅して大宇宙の真実・真理と一体となるよう修行、行動しているかだけが問題となるのだ。

 大宇宙の真実・真理ということは森羅万象、全存在が真実・真理なのだ。だから「草花山水そうけさんすいにひかれて仏道に流入るにゅうする」「土石沙礫どしゃくしゃりゃくをにぎりて仏印ぶっちん稟持ひんじする」ことが起こるのだ。この身心が大宇宙の真実・真理と一体となれば自分と草花山水の別はなくなる、土石沙礫との区別はなくなるのだ。この身心は大宇宙そのものとなるのだから。

 霊雲れいうん禅師は桃の花が咲き誇っている風景を見て真実・真理を得たと言われている。香厳きょうげん禅師は箒で道を掃いていて小石がはじかれ竹にぶつかった音を聞いて真実・真理を得たと言われている。

 全宇宙の森羅万象全存在が真実・真理だ。それは言葉などで表現できるものではない。この身心を使って行動する中で坐禅することによって体得できるものなのだ。

 その意味で澤木興道氏がおっしゃっておられるように仏道は思想ではなく真事実そのものなのだ。

 今の世の中言葉が溢れている。論破だとかなんとか騒いでいる。ネット上には言葉が溢れかえっている。言葉言葉言葉。言葉の海、言葉が渦巻いている。けれど、その言葉によって社会は良くなっているのか?何かが起こると言葉が湧きだしてくる。それが繰り返されているだけではないか。

 軍事力の恐怖の拮抗の構築に血眼になり、間違って送金された金を博打で使い、観光船での金儲けに眼が眩んで人命を奪い、高校生を暴力に晒し高校生活を踏みにじる教師がいる。

 これらに対して色んな言葉が飛び交っているけど、それで社会がまともになるとは到底思えない。

 脳味噌で言葉遊びしても人間はまともになることは絶対にない。

 身心を大宇宙の真実・真理と一体とすること、本来の真実・真理の状態となること、それ以外に方法は無い。つまり坐禅するしかないのだ。

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