第52話 辦道話その四十一 葬式は寺の経営のためにある

 「とうていはく、いまわがちょうにつたはれるところの法華宗ほっけしゅう華厳教けごんきょう、ともに大乗だいじょう究竟くきょうなり。いはむや真言宗のごときは、毘盧遮那如来びるしゃなにょらいしたしく 金剛薩埵こんごうさったにつたへて師資みだりならず。その談ずるむね、即心是仏そくしんぜぶつ是心作仏ぜしんさぶつというて、多劫たごうの修行をふることなく、一座に五仏の正覚しょうがくをとなふ、仏法の極妙ごくみょうといふべし。しかあるに、いまいふところの修行、なにのすぐれたることあれば、かれらをさしおきて、ひとへにこれをすすむるや。」

 第四問答の問い。

 質問して言うことには、今我が国に伝わっているところの法華宗や華厳経はともに大乗仏教の究極のものだ。まして真言宗などは毘盧遮那如来が第一番の弟子の金剛薩埵に伝え正しく師匠から弟子に伝わってきたものである。その教えに言うところは、即心是仏つまり今のこの心がすなわち仏=真実であるというものであり、是心作仏この心が仏=真実をなすというものでって、長い期間の修行を経ることなく、修行の座に着けば五仏(5人の仏)の正しい教えを得ることになるという、これは仏法の最高の妙術というべきものである。それであるのに、今言う坐禅という修行はどのような優れたところがあるということで、上に述べたような宗派を差し置いて、ただひたすら坐禅をすすめるのか。

 私は仏教というのは人類を救えると思っている。だから僧侶には頑張って欲しい。

 けれど残念ながら今の日本の仏教界は各宗派の塊の中でそれぞれの塊を維持するので精一杯に見える。一般の人が仏教に触れるのは葬式の時ぐらいだろう。もし墓が寺の所有であれば墓の維持で寺と関係があるくらいだろう。

 私は葬式とか墓なんて仏教の本質と何ら関係は無いと思っている。妹、両親の葬儀は火葬場で直葬。家族だけで坊さんは呼ばなかった。そして墓じまいして離檀届を出して寺との関係は無くなった。

 葬儀でお経を読んでもらってどうなるというのか。春の田んぼの蛙の鳴き声を聞いて何がどうなるというのか。ただ単に寺の経営のために行われているに過ぎない。

 葬儀をどうするかは個人の趣味の話であって仏教とは関係ない。

 各宗派が真の仏教とは何か論争したらよいと思うけど、まともな議論にはならないだろうな。本質的なテーマではないところで小競り合いが続くだけのことだろう。なら時間の無駄だ。

 この問いに対する道元禅師の回答は次回。

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