第47話 辦道話その三十六 真実・真理を知りたい

 「おほよそ諸仏の境界は不可思議なり。心識のおよぶべきにあらず。いはむや不信劣智のしることをえむや。ただ正信しょうしん大機だいきのみ、よくいることをうるなり。不信の人は、たとひをしふともうくべきことかたし。霊山りょうぜんになほ退亦佳矣たいやくけいのたぐひあり。おほよそ心に正信おこらば修行し参学すべし。しかあらずは、しばらくやむべし。むかしより法のうるほひなきことをうらみよ。」

 仏と言われた方々の状態、境地というものは人間が考えることができないもの、思議することが不可なものである。人間の意識が及ぶところではない。まして、仏法、仏教を信じようとしない人間、仏法、仏法について考えが及ばない人間が理解することはありえない。真実・真理を知りたいと思い仏法、仏教を信じる人間(大機)のみ仏法、仏教の世界に入ることができるのだ。信じない人間はたとえ教えを受けたとしても理解することは難しい。釈尊の教団があった霊鷲山りょうじゅせんにあってもやはり釈尊の教えはもういいと言って退席した人々がいて釈尊が「退くのもまたよし(佳し)」とおっしゃったということがあったのだ。およそ真実・真理を知りたいという正しい気持ちが起こったなら修行し勉強することが当然である。もし真実・真理を知りたいという気持ちが無いのであれば、当分の間やめておくがよい。自分には過去からずっと真実・真理の教えの潤いが来ないことを残念に思うしかない。

 真実・真理を知りたいという気持ちが起きない限り、仏教を理解、体得することはできない。真実・真理を知りたいという気持ちが起こることを「発心」という。

 以前に書いたように私は仕事の上で「正しいとは何か」ということで七転八倒し、もがき続けていた中で正法眼蔵に出会った。この経験がなければ正法眼蔵を手に取ろうとは思わなかったろうし、仮に手に取ったとしても何が書いてあるか全くわからなかったろうと思う。

 生死の境目で真実・真理を知りたいという経験をしなければ仏教の価値はわからないと個人的には思っている。

 道元禅師も「しかあらずは、しばらくやむべし」とおっしゃっている。

 真実・真理を知りたいと思っていない人、仏教は真実・真理に到る教えであると信じていない人にいくら説いても無駄だ。

 人間は理解したくないことは聞く耳持たない。実社会でもしょっちゅうあることだ。

 プーチンに「あなた間違ってますよ」と言っても、激怒するだけでなんにもならないのは間違いない。

 真実・真理を知りたいと思わない限り、発心しない限り大宇宙の真実・真理を得ることはできない。

 そして発心した身心で坐禅しない限り大宇宙の真実・真理を得ることはできないのだ。

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