第48話 辦道話その三十七 頭で考えても無駄である

 「又、読経念仏等のつとめにうるところの功徳を、なんぢしるやいなや。ただしたをうごかし、こゑをあぐるを、仏事功徳ぶつじくどくとおもへる、いとはかなし。仏法にするにうたたとほく、いよいよはるかなり。又、経書きょうしょをひらくことは、ほとけ頓漸修行とんぜんしゅぎょうの儀則ををしへおけるを、あきらめしり、きょうのごとく修行すれば、かならず証をとらしめむとなり。いたづらに思量念度しりょうねんたくをつひやして、菩提をうる功徳に擬せんとにはあらぬなり。」

 また、お前さんは読経・念仏を行うことによって得られる効用、効果を知っているかいないのか。ただ舌を動かし声をあげるのを真実・真理を得るための仏としての行い、修行だと思っている。誠に的外れの儚いことである。念仏を仏法であると推し量るならばそれは仏法からますます遠く離れていき、どんどん遥かに離れて行ってしまう。また経典を開いて読む、読経することは、仏と言われた方々が修行には頓すなわちぱっとその瞬間に体得すること、漸すなわち時間をかけて体得することその2つがありその2つのやり方を教えるものであって、それを明らかにはっきりと知り、その教えに従って修行するならば必ず真実・真理の状態に到達するということなのである。そのことが分からず無駄に頭で考え脳味噌をひねくり回したら真実・真理に至るという効用があると考えるようなことではないのである。

 読経・念仏に神秘的な力があるというようなことを言う人たちがいる。道元禅師はこれを完全に否定している。

 真実・真理に至る方法は坐禅唯一つだ。

 大勢が集まって読経・念仏すれば気持ちがいいだろうね。一種の集団催眠というか陶酔状態になるんだろう。健康にはいいかもしれないけど、真実・真理とは全く関係ない。

 本を読んで知識を得るのは大切だ。しかし、その知識をどのように使って行動するかが問題だ。知識があっても行動が滅茶苦茶ならどうしようもない。経典は方法を示してはくれるが実際にそのとおり修行しなければいけない。修行とは坐禅である。

 知識だけあって能書きばかり垂れてても何の役にも立たない。いや、害悪すらもたらす。

 今の世の中、言葉ばかりの人間で溢れている。このままじゃどうしようもない。

 坐禅しましょう。

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