第23話 辦道話その十二 坐禅は行動である

 電車の中で「読む座禅」という広告を見た。座禅という表記もしっくりしないけど、「読む座禅」というのは滅茶苦茶だ。本を読むことと坐禅は全く違う。本を読んでも坐禅した状態になることなどあり得ない。

 坐禅を心の問題、精神の領域で扱うという根本的な間違いを犯しているケースが非常に多い。

 「身心一如しんじんいちにょ」という。身と心は一つ。そもそも身と心という2つのものがあると考えることが間違いだ。正法眼蔵にも「心不可得しんふかとく」という巻がある。心というのが独立して把握できるように考えるのは間違いだ。

 身心を使って日常生活の中で行動している時に身と心を切り離して考えるなんてことはない。身心は混然一体となってフルにその機能を果たしているのだ。

 坐禅は身心が真実・真理に従って、大宇宙の真理に従って機能するために行うものなのだ。身心を真実・真理の状態、大宇宙の真理の状態に戻すために行うのだ。

 坐禅して安心を得る、心を穏やかにするというように言われることが多い気がする。そういう面もあるけれども、それは坐禅のごく一部に過ぎない。生きるということは厳しいものなのであって、いつでも安心して穏かになんていられるもんか。そういう厳しい瞬間瞬間を真実・真理に従って行動して行くために坐禅するのだ。

 繰り返すが坐禅は精神修養のためのものではない。身心を真実・真理の状態、大宇宙の真理の状態にするためのものだ。頭の中で「真実・真理」と百万遍唱えたって真実・真理の状態にはなれない。

 坐禅するという行動によって初めてそれが可能になる。身心一如である。身を坐禅の形にしてそれを維持するという行動を取ることによって一如である心も整うのだ。

 スポーツ選手が試合の中で「ゾーンに入る」ということがあるそうだが、坐禅の状態はそれに近いのかもしれない。

 その意味で極端に言えば坐禅=スポーツと言っていいかもしれない。

 現代は頭脳偏重に過ぎる。身体を整えることで一如である心も整う。身体を整えるためにいつでもどこでもすぐにできるもの、それが坐禅なのだ。

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