第19話 辦道話その八 坐禅しない限り正しいことはできない

 私は正法眼蔵を読み、坐禅して30年近くなる。その中で、仏教は真実・真理に従って生きるための身心を得る方法を説いたものだと思うようになった。

 仏教にも戒律はある。けれどその戒律は「こう生きろ」と生き方を詳細に規定するものではなく、「最低限こういうことはしないように」ということを示しているに過ぎないと思っている。そして戒を破ったとしても真実・真理を得たいと願うなら、買いを破ったことは許される。

 真実・真理と一体となった身心、大宇宙の真理そのものとなった身心、その身心になるには坐禅するしかない。

 焼香もいらない。礼拝も不要。念仏は必要ない。懺悔しなくともよい。お経を読まなくていい。ただひたすら坐禅していればよい。

 どんなに立派な思想でも、哲学でも、理論でも、それを扱う人間の身心が正しくなければ、思想も哲学も理論も害悪しかもたらさない。

 現実に起こっていることを見ればそのことは一目瞭然ではないか。

 坐禅するしかない。

「この単伝正直の仏法は、最上のなかに最上なり、参見知識のはじめより、さらに焼香・礼拝・念仏・修懺・看経しょうこう・らいはい・ねんぶつ・しゅさん・かんきんをもちゐず、ただし打坐して身心脱落することをえよ」

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