第16話 辦道話その五 欲望に狂う
道元禅師は人々を救うために正法眼蔵をお書きになられた。
坐禅した身心のみが真実・真理を得ることができる。
真実・真理を得たければ坐禅するしかない。
真実・真理を得ることを妨げるのが欲望だ。
しかし欲望は絶対的な悪ではない。
食欲が無ければ生命が維持できない。性欲が無ければ人類は滅亡してしまう。
信仰=禁欲みたいな単純な図式はやめた方が良い。人間が生きていく上で必要な欲望は満たす必要がある。
問題なのはどの範囲に欲望を抑えることができるかということだ。これは理屈ではない、頭で考えてできることではない。
ではどうするか?坐禅した身心であれば適正に欲望を使いこなすことができる。ただそれだけのことだ。
道元禅師は「名利を捨てること」を強調されている。名利を捨てることが、まず出発点だ。名利は自分というものに固執し自分の利益に振り回されている状態だ。自分の利益に固執し、自分を見失ってしまっている。
真実・真理を求めるならば、このような名利に拘る状態を捨てなければいけない。
純粋に真実・真理を求める。人間がやるべき唯一のこと。
今その唯一のことが見失われてしまっている。つくづくそう思う。
ロシアのウクライナ侵攻なんて典型的な例だ。人を殺し、町を破壊し、人間の生活を壊滅させてまでして何を欲しているのだろうか?下に引用した言葉で言えば「自狂に酔っている」としか言いようがない。
いい加減人類は真実・真理に生きようとしなければいけない。そのためには坐禅が必要だ。
ただ、人類が真実・真理に従って、大宇宙の真理に従って生きるようになるまでにはまだまだ時間がかかる。当面は現実を踏まえた妥協に次ぐ妥協を続けていくしかない。この現実も受け入れなければいけない。徹底した現実の理解と現実に実行できる妥協策を作り実行していくしかない。それくらいの知恵は人間にあると信じたい。滅亡の選択肢を選ばないだけの知恵はあると信じたい。
ただ妥協は妥協に過ぎない。求めるのは、実現しなければならないのは真実・真理だ。そのためには坐禅した身心が必須なのだ。
「おのずから名利にかかはらず、道念をさきとせん真実の参学あらむか。いたづらに邪師にまどはされて、みだりに正解をおほひ、むなしく自狂にゑうて、ひさしく迷郷にしづまん、なにによりてか般若の正種を長じ、得道の時をえん。」
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