第7話 正法眼蔵に入る前に 私の考え方 無ってなんだ?

 「無」という言葉がある。

 正直言って私は「無」って何だかわからない。

 学問として仏教を学んだことはないし、宗教団体に関係したこともないので「無」について専門的なことは知らない。

 Wikipediaの「無」の仏教のところには、

未生無(みしょうむ)原因が無いとき、結果は生じて無いということ。

已滅無(いめつむ)過去にあったが滅したものは、すでに無いということ。

不会無(ふえむ)今この場所に無いということ。

更互無(こうごむ)AはBでは無い、BはAでは無いということ。

畢竟無(ひっきょうむ)過去に無く、未来に無く、現在にも無いということ。存在し得無いこと

と書いてあるけど、全然わかりません。そして、わかったからと言って生きていくうえで役に立つとも思えない。

 こういう訳のわからないことを、したり顔でしゃべって人をたぶらかせて金儲けしようとする奴がいる。

 むーむー言うな!うるさい。

 坐禅して無の境地になるなんて言う奴がいるけど、そんなことはない。無の境地になれないのは修行が足りない、お布施が足りないなんて言うのは詐欺師ですから気をつけましょう。

 坐禅してると頭の中には次から次へと色んな思いが、映像が浮かび上がってくる。生きてるんだから当たり前だ。肝心なのはその思いとか映像を追っかけないこと。いかんいかん、今は坐禅してるんだと思いを放り捨てる。でもすぐに色んなものが浮かび上がる。また捨てる。これを繰り返してればいい。

 道元禅師も正法眼蔵の坐禅儀の巻の中で「諸縁を放捨し、万事を休息すべし」と書いておられる。思い浮かんでくるものは放っておけ、その思いを追いかけて考えるのをやめろ、ということだろう。決して「何も浮かび上がってこないようにしろ」なんておっしゃっていない。

 浮かび上がってくるものっていうのは、自分が拘っているものやら欲望やらその時の感情など。現実に目の前に存在しているように思える。けれど、坐禅しているんだと思った瞬間、そこには部屋の中でぽつねんと坐禅している自分がいるだけという当たり前のことに気付く。

 普段、頭の中に展開されているものと現実がごちゃごちゃになっていることに気付く。自分が頭の中の考えや映像に振り回されていることに気付く。ああ自分はこういうことで怒ったり憎んだり悲しんだりしてるんだなあ、ということに気付く。

 そして本来の姿、「本来の面目」を取り戻す。これが坐禅だ。そう信じている。

 もちろん、静寂と言っていい状態になることもある。それはそういうこともあるというだけのこと。海がべた凪になることがあるようなもんだ。自然現象。自然現象を起こそうなんてあほなことを考えちゃいけません。

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