第6話 正法眼蔵に入る前に 私の考え方 難行苦行は無駄
私と宗教との関係はこれまで書いてきたとおりだ。
会社で徹底的に苛められて、正法眼蔵を手に取るまで、宗教なんて必要なかった。
正法眼蔵を手に取ったのも「救われたい」というのではなく、真実・真理ってなんなんだ、それが知りたいということだった。
正法眼蔵に入る前に、宗教について私が思っていることをアトランダムに書いていくことにする。思いついたまま。
まずはそうだな、難行苦行は不要だ。無駄だ。
日本人は何だか知らないが「厳しい修行」が好きなようだけれど、物凄く厳しい修行をしなきゃ真理・真実がわからないんじゃ話にならない。普通の人の役に立たない。
厳しい修行をしなきゃだめなら、仏教に価値はない。普通の人が普通に生活している中でやれることで真実・真理に到達できないなら意味がない。
当たり前のことでしょ。
厳しい修行なんてある意味では簡単だ。
昔、やくざが宗教は儲かるというんで、一週間か10日だか穴の中に閉じこもって水だけで耐えきって教祖様になったということがあったと記憶している。
すぐに「立派な方だ!」ということで信者が集まったらしい。で、その教祖様はきれいな女性の信者をレイプして逮捕されちゃったと記憶している。
色と欲のためなら10日ぐらい水だけで人間は頑張れるんだよ。そんなもんだ。
荒行が必要だとか、難行苦行が必要なんてのは、それで金を儲けようとしている奴らの言い草だ。オウム真理教なんていい例だ。
釈尊が難行苦行の末悟りを開いたみたいにいう。釈尊は確かに様々な難行苦行を行い命を失いかけたこともあったそうだ。しかし、その結果、難行苦行しても真実・真理には到達できないことを明確にされた。そして坐禅を伝えられたのだ。私はそう思っている。
釈尊が命を懸けて無駄だと教えてくださっているのに、何で難行苦行をするのかね。釈尊に反逆していることになるじゃないか。
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