第9話 正法眼蔵に入る前に 私の考え方 坐禅してなにになる?
坐禅したらどうなるのか?
澤木興道氏は「坐禅しても何にもならん」と言っておられる。西嶋和夫氏は「なんにでもなる」と言っておられる。
私は坐禅した心身で日常生活を過ごせばいいとしか思っていない。
坐禅は「悟るための手段」ではない。坐禅を続けていると悟りを開くみたいなことを言う人がいるけど、まったく見当違いというか、坐禅を貶めていると思う。
大体「悟り」ってなんだ?こういう訳のわからないことで人を誑かしてはいけません。「修行が足りんから悟れないのじゃ」とか言って、金をむしり取ったりしている。
悟りという言葉は大嫌いだから使いたくないけど、敢えて言えば「坐禅している状態が悟りの状態」とでも言えばいいんだろうか。大宇宙と心身が一体となった状態だ。その状態なら日常生活でおかしなことをしないで過ごせる。
坐禅したら運が良くなるとか幸福が訪れるとか成功するとか、そんなことはない。坐禅はおまじないじゃなんだからね。
坐禅して何が起きても動じないなんてことを言う人がいるけど、何か起きたら人間は咄嗟に何かするのが普通だ。もちろん騒いだり動いたりしない方がいいときもあるけれど、悲しければ泣けばいいし、うれしけりゃ笑えばいい。腹が立てば怒ればいい。坐禅して身心が大宇宙と一体となっていれば、正しく驚く、悲しむ、喜ぶ、怒ることができる。あるいはじっとしていられる。
これ以上何を望むんだろうか?
普通の人間になって普通のことができるようになる。それ以上のことはない。
普通というのは大宇宙の真実・真理に従っているということだ。これは坐禅しない限り不可能だ。
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