8.美咲のパソコン
思い立った彼女は行動が早い。
彼女はパソコンの前に座る。草木も眠る丑みつ時。彼女は自信満々に呟いた。
「私に必要なのは、彼を振り向かせる計画なのよ」
親がいつか要るだろうといって勝手に買ったパソコンをもう一度立ち上げる。
文章を書くソフトを使って何事かキーボードを打ち始めた。
彼女は気づく。
手が勝手に動いていることに。
これまでのピアノの練習の賜物なのだろうか。
タイピング能力はそこまで自信があるわけではない。
けれどカタカタカタカタと止まることもなく打ち込んでいく。
「文章を書く職業に向いているのかもしれないわ」
彼女は少し笑った。もちろんピアニストとしての道をとるならば、
そんな甘い考えを持ち続けることはないけれど。
「ストレス発散にはいいわよね」
案外にピアノの鍵盤とパソコンのキーボードの感じは同じもの。むしろ黒鍵がない分すんなりとブラインドタッチができる。
彼女の周りの人は困惑したようにヒソヒソと囁き合っている。
「美咲お嬢様はお部屋から一歩も外に出ることなく、何かしていらっしゃるようなのです」
彼女の母親が部屋のドアをノックする。
「美咲、何をしているの? レッスンに行かないとだめじゃないの」
彼女の母親が見たのはパソコンの画面に釘つけになって
キーを叩いている彼女の姿。
「パソコンなんて開いて何をしているの? 支度をしなさい」
「こんどの演奏会の内容をまとめてくれって言われているの。
後5分で終わるから」
「もう、はやくなさいね。車を回してあるのだから」
強情な母親がすんなりと引き下がってしまうほどに彼女は集中していた。
「出来た」
彼女は3日で150枚ほどの原稿を書き上げたのだった。
数時間しか寝ていないために彼女の眼の下にはクマが出来ていたが、
本人はいたって満足そうだ。
「出来の程は知らないけれど。私ってやれば出来たのね」
パソコンの印刷ボタンをクリックして彼女は立ち上がる。
「これで第一段階はクリアって感じかしら。ではレッスンにまいりましょうか」
☆☆
其の日、午前10時からみっちりレッスンが入っている。
一応夜18時までとなってはいるもののいつも先生の感想やら指導やらで
午後20時にはなってしまう。
彼女の歌の先生は珍しく褒めてくれた。
「いつもよりも伸び伸びと演奏しているように感じますわ」
苦痛だったレッスンも今日はなんだか軽い気持ちでこなせている。
「何かありましたか?」
「楽しみなことができましたので」
何時もは小言が降ってきてレッスン時間が延びるのに今日は何事もなく終わる。
「いいことですわ。表現力が上達しているようです。
来週もこのように練習できるとよいですわ」
ふと彼女は口を開いた。
いつもは口応えせずに「はい」と答えている彼女にとって珍しい行動だった。
「ねぇ、先生。私より才能ある人が存在したらどうなさいます?」
50歳前後の先生は老眼鏡をかけなおして彼女の顔を見る。
「おかしいことを言いますね。
わたくしは30年ほど指導しておりますけれど、
あなたの様に素晴らしい演奏者は知りませんわ。
あなたはいずれ、お父様も超えるようになるとわたくしはおもっておりますの。
そんなあなたより才能のある人なんてありえません」
「答えて頂きありがとうございます。期待に添えるように頑張りますわ」
彼女は練習用のホールを出てぼんやりと歩く。
建物からでて駐車場に向かう。
ひときわ大きい車の前には二十五歳くらいの男が立っていた。
彼は送迎のときの運転手だ。きちんとスーツを着ている。
「おじょうさま。今日のレッスンはどうでしたか?」
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