十二. 約束のない恋
(ただの友達)
その、たった一言の彼女の「言葉」が胸に突き刺さっていた。
その後、しばらく俺はどこか「上の空」だったらしい。
というのは、妹に、
「お兄ちゃん。ご飯、まだー?」
と言われて、初めてハッとして、晩飯を作るのも忘れていたからだ。
慌てて、晩飯の支度をする俺を、妹がジーっと見つめていたのが、何だか気味が悪く思えた。
だが、妹はやはり「女の勘」が鋭かった。
「何なの。優里亜さんと喧嘩でもしたの?」
「いや、そうじゃなくて」
それでも、妹に、「あのこと」を言い出しづらいと思って、口を
葵は、珍しく溜め息を突いて、食事中に、
「お兄ちゃんは、ホント、『女心』がわかってないね」
と箸をくるくる回しながら口に出した。
「何だと?」
「わからないの? この鈍感大魔神。優里亜さんはね、最近明るくなったよ」
言われて初めて気づいた。というか、思い出していた。
父親との一件が終わった後、確かに彼女は妙に「明るかった」。まるで「
「誰のお陰だと思ってるの?」
「お前か?」
「バカ。お兄ちゃんでしょ。どうするの? 明るくなった優里亜さんは、きっとモテるよ。グズグズしてると、他の人に取られちゃうよ。あんなに素敵な人なんだから」
だが、確かに優里亜さんが、「他人の彼女」になることを想像すると、とても胸が苦しいと感じるのだった。
「そうか?」
それでも、つい恥ずかしさを紛らわすために俺が口にした言葉に、妹は呆れているようだった。
「そうか、じゃないでしょ。男なら、さっさとデートにでも誘ってみなよ」
「デート? いや、それは……」
その言葉に、俺自身が予想以上に、鋭く反応していた。
事実、女性に「モテた」ことがほぼない俺は、「デート」と言える物はほとんど経験すらしていなかった。ましてや「ただの友達」と言われたことが、未だに尾を引いていたからだ。
「まったく緊張感ないなあ。いいからさっさと誘いなよ」
「わかったわかった。明日な」
「今すぐ! 電話なんてLINE通話でいいでしょ」
実際に、俺は彼女の携帯電話の番号すら知らなかった。やけに強引な妹に、背中を押され、渋々ながらも俺は携帯を手に取った。
だが、そこから決心がつかず、なかなかLINEの通話ボタンを押せずに、立ち尽くしていた。
「ホント、世話が焼けるなあ。ほら、ちょっと貸して」
気がつくと、強引に電話を取り上げられていた。
そして、妹は俺の携帯を操作し、LINE通話ボタンを押していた。
「あ、優里亜さん。お兄ちゃんが話があるんだって」
「おい、勝手に!」
もう「後の祭り」だった。
妹から電話を渡され、受話器の向こうで、
「鳳条君? どうしたの? 電話なんて珍しいね」
彼女の明るい声が聞こえてきた。
「あ、あのさ。今度、その……」
「何?」
「フィールドワークに行こう」
いかん。いつもの癖で、つい、と思って口走っていたら、すぐ横にいて、様子を窺っていた妹の葵に思いっきり、脇腹を肘打ちされていた。はっきり言って痛い。
「フィールドワーク? いいわよ。葵ちゃんと3人で?」
「い、いや。出来れば2人で」
やや間があった。
この数瞬の沈黙が、何だか妙に息苦しく感じる。
「わかった。場所は?」
安堵すると同時に、聞かれて、正直迷った。全く考えていなかったからだ。
「えーと。秘密」
「何、それ?」
受話器の向こう側から、彼女の笑う声が聞こえていた。かつてのように「控えめな」笑い声ではなく、明るい声だった。
「えーと。ちょっと考えておく。今度の土曜日の9時に、品川駅で」
後は勢い任せだった。
矢継ぎ早に、まくし立てるように告げていると。
「わかったわ。楽しみにしてる」
そう言った、彼女の声が「弾んで」いるようにも聞こえた。
電話を切ると、どっと汗が出ていた。こういう時、こんなに緊張するものか、と思うのだった。デートは大抵、「男から」誘うものだが、思春期なら例外なく「緊張する」ものなのだ。ましてや経験値が低い俺ならなおさらだった。
妹の葵は、その様子をニヤニヤと気味の悪い笑顔で、眺めていた。
「良かったね、お兄ちゃん」
「あ、ああ」
「でも、フィールドワークって、何?」
妹の目が本気で「怒っている」ようで怖かった。
「つい」
「つい、じゃないよ。このヘタレ」
妹からは散々、文句を言われているのだった。
しかも、あろうことか、
「まあ、今のお兄ちゃんなら大丈夫だと思うけど、もしフラれたら、私が傍にいてあげるよ」
と言い出す始末。
「いや、妹が傍にいてもな」
「何よ、文句あるの? まあ、もっとも私が傍にいるのは、私に彼氏が出来るまで、だけどね。後はもうしーらない」
そんな妹の様子が、おかしくもあり、どこか「頼もしく」も感じるのだった。
異性の兄弟 ―この場合は兄と妹だが― は、同性の兄弟とは明確に違う部分がある、という。通常は、我が家ほど仲が良くないだろうが、それでも幼少期を一番近くで共に過ごし、やがては他人の「恋人」になる運命の、年齢的に近い異性。
同性の兄弟には、この不思議な感覚はないし、同性の兄弟の場合、異性の気持ちがわからずに成長してしまうことが多々ある。
つまり、「年齢が近い異性」の感覚を自然と学べるのが、異性の兄弟と言えるのかもしれない。
今は、少しだけ「葵が傍にいてくれて良かった」とも思うのだった。
こうして、俺は、妹の葵の「手助け」もあって、ようやく「優里亜さん」をデートに誘うことに成功するのだった。
後は、行き先の問題だった。悩んだ末に、俺は彼女を「ある場所」に連れて行くことを決意する。
当日、土曜日。
真夏の強烈な日差しが、朝から差す「猛暑」のような7月末の炎天下の日だった。
午前9時。俺は、妹の葵に「オススメ」と言われて選んだ、俺の持ち物の中で、数少ない、薄い茶色のチノパンと、半袖のネルシャツを着て、品川駅の港南口に向かった。
そこで、思いも寄らない物を見ることになる。
彼女は、確かにいた。
だが、その格好は。
純白のワンピースを着て、日傘を差した彼女の姿だった。そして、驚くべきことに、「眼鏡」をかけていなかった。
それは、まるでかつての「レイちゃん」のような格好に見えた。
「優里亜さん。その、眼鏡は?」
「おはよう、鳳条くん」
そう言って、彼女は微笑んだ。その笑顔が今まで見たことがないくらいに、明るくて「可愛かった」のだ。その時点で、もう胸が高鳴っているのを感じてしまう。
「今日はコンタクトにしたの」
そう言った彼女。眼鏡の彼女に見慣れていたから、素顔は新鮮だった。同時に、本来こんなに可愛らしいのか、とその色白だが、艶のある顔にどぎまぎする自分がいた。
眼鏡がない状態で、真っ白なワンピーススタイル。長いストレートの黒髪。昔、会った「レイちゃん」はまだ眼鏡をかける前の彼女だったから、ますます似ていた。
「それで、今日はどこに行くの?」
「それは……」
俺は初めから、「プラン」を考えていた。正確には「妹」が半分手伝って考えてくれたものだったが。
電車で、向かった先。そこは。
「わあ。久しぶりに来たわ」
目の前にそびえる、巨大な門。赤い柱が目を引き、両側には風神と雷神の像が立ち、中央には大きく「雷門」と書かれた巨大な提灯がぶら下がっていた。
そう、そこは「浅草」だった。
ある意味、日本的で、外国人観光客に人気で、そして「歴史」を感じられる場所。そういう理由で、彼女が気に入ると思い、俺が真っ先に選んだ場所だった。
「浅草は久しぶり? 優里亜さん、東京出身でしょ」
「そうだけど。色々あったからね。父のこととか、論文のこととか」
「そうだね」
「でも、あなたのお陰で、解決したから」
そう言って、俺に視線を合わせて微笑んでいた彼女は、眩しいくらいに「可愛らしかった」。
門をくぐり、いわゆる
沿道には様々な店が建ち並ぶ。土産屋、食べ物屋、洋服屋など。
辺りは、土曜日ということ、そして晴れていることもあり、大勢の観光客で賑わっていた。中には、外国人の姿が目立つ。ある意味、非常に日本的なここは外国の観光客には人気があるからだ。
かつては、「人混みは苦手だから嫌」と、縁日の人混みにも行きたがらなかった彼女。今は、すっかり明るい表情で、散策を楽しんでいるように見えて、俺は安心していた。
この仲見世を、店を冷かしながら歩き、俺は思い出していた。妹からの「指令」を。
「いい? お兄ちゃん。せっかく行くんだから、プレゼントくらいしてあげること」
それが妹からの「指令」で、彼女は「オススメ」という店を紹介してくれた。
渋々ながらも、その店の前で、俺はわざとらしく立ち止まり、
「ちょっと見て行こう」
と言って、彼女を誘った。
そこは「かんざし屋」だった。
浅草では老舗と言える、古くから営業している「かんざし屋」だった。
そこで、俺は、またも「妹」から勧められた「黄色い花」のような装飾がついた、一本のかんざしを手に取り、
「これ、優里亜さんに、似合いそう」
と、内心照れ臭いのを我慢しながらも、差し出すと、
「ありがとう」
彼女は、まるで「花が咲いた」ように笑顔で、受け取って、まじまじとそれを見つめていた。
「綺麗。素敵ね」
「気に入った?」
「うん」
「じゃあ、俺からのプレゼント」
普段、こんな
「いいの?」
「うん。良かったら、もらって欲しい」
その俺の一言に、彼女は満面の笑顔を浮かべて、
「ありがとう。ずっと大切にする」
と、はにかんだような、上目遣いで見つめてきた。
可愛い、と思うと同時に、俺の記憶の中の「レイちゃん」が甦ってきたようだった。
思えば、「レイちゃん」とは何も具体的な「約束」などしていなかった。
強いて言えば、小学3年生の夏に、
「来年もまた会える?」
「うん!」
と言葉を交わしただけ。しかもその「約束」は果たされなかったのだ。
思えば、これはきっと「約束のない恋」なのかもしれない。
ここまで来ると、ある意味では不思議な「運命」を感じてしまう。
男女の恋とは、実に不思議なものであり、思いも寄らないところから始まって、互いに惹かれて行くものなのかもしれない。そんなことを思いながら、俺は彼女と浅草デートを楽しんでいた。
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