九. 憂鬱な理由
ようやく彼女との距離が、縮まった。
と思ったが、その後に「障害」が襲いかかってきた。
その後も、俺と彼女、そして妹の3人で、様々なフィールドワークを通じて、交流を深めていたのだが。
7月に入り、夏休みを控える中。
ある時、いつものように部室に行くと。
いつもは、椅子に座って、行儀よく本を読んでいることが多い彼女が、机に突っ伏して寝ていた。
長い髪を振り乱しながら、突っ伏す様子が、まるで「蛸」のようにも見える。
「どうしたんですか、優里亜さん?」
妹の葵が、心配そうに駆け寄るが。
「ああ、2人とも。おはよう」
明らかにもう「おはよう」という時間ではない、放課後にも関わらず、彼女は顔だけを向けて、眠そうな目を開けて、そして、声は「暗かった」。
いつも、テンションが低く、決して「明るい」性格ではないが、それでも常に行儀よく本を読んでいた彼女にしては、珍しいほど「ダラけて」いた。
「おはよう、じゃないよ、優里亜さん」
優里亜さん、と呼んだ俺に、妹は驚いたように、目を向けてきたが、何も言わなかった。
「ちょっとね。なんか、もうどうでも良くなってきちゃった」
あの、歴史に対する熱い情熱はどこに行ったのか、と思うほど、優里亜さんは落ち込んでいた。
「話なら聞くよ」
俺が告げても、
「別に話してどうなる問題じゃないし」
と素っ気ない。
そして、俺は彼女の「隠された」本性を見ることになる。
「そんなこと言わずに。優里亜さん。話したら楽になるよ」
妹が熱心に声をかけたのが、効いたのか、渋々ながらもゆっくりと体を起こした。眼鏡をかけたまま、突っ伏していたようで、眼鏡が顔からズレていた。
それを直し、
「父がね。いよいよ動き出したの」
それだけを言った。相変わらず、最低限のことしか話さない人だ、と思い、さらに突っ込んでみると、
「だから、言ったじゃない。父が会社を継げ、大学は経済学部にしろ、ってうるさいのよ」
普段、穏やかな彼女からは想像もつかないほど、声にトゲがあった。
「そんなのいつものことじゃないの? 大学に行って、研究者になりたいんでしょ。だったら、それを強く主張すればいい」
俺のこの一言がきっかけになってしまった。
「あなたに何がわかるのよ。父に会ったこともないくせに」
冷たい一言、そして氷のように冷めた瞳だった。
俺はそんな彼女の姿など見たこともなかったから、逆に驚いて、
「ごめん」
と謝っていたが。
彼女は、それを無視するかのように、
「どうやったら、父を説得できるのか、わからないのよ」
今度は寂しそうに視線を逸らした。
妹もどうすればいいか、悩んでいるようだったが、俺は意を決して、
「じゃあ、君が歴史の論文でも書いて見せてみれば? これだけ真剣なんだから、きっとわかってくれるよ」
そう言ったのだが。
溜め息を突いた後、彼女は、
「無駄よ」
と、凍りつくような声を上げて、こちらを征するような言葉を投げてきた。
その様子が、どこか「霊的な」ほど冷たく感じる。彼女の本性はこっちで、「幽霊」と呼ばれる所以もこの冷たいところから来ているのかもしれない、と思うほどだった。
「どうして?」
「父は、そんなものに興味を示さないから」
俺は、それでも、食い下がることにした。彼女をこのまま「冷たい」ままにしておくのが、忍びなかった。
「君のお父さんが好きな本は何?」
その唐突な質問に、彼女は驚いたようで、少し考えてから、
「推理小説かな」
と答えた。
だが、そう答えを聞いたところで、その時の俺には、有効な解決策は浮かばなかった。
「推理小説か。全然歴史と関係ないな」
「だから言ったじゃない。もう父と縁を切るしかないかもね」
だが、それに対し、俺は声を上げていた。
「それだけはダメだ」
「どうして?」
「どんな父親でも、たった一人の肉親でしょ。縁を切ったら、後悔する」
「そうですよ、優里亜さん。ちゃんと話し合えば、親子なんだからわかりあえるはずです」
妹も声を揃えて訴えるものの。
優里亜さんは、相変わらず難しい顔のまま、
「はあ。もう今日はいい。部活動はなし。2人とも帰って」
溜め息混じりの冷たい一言だけを投げかけて、また机に突っ伏してしまった。
俺は妹と顔を見合わせ、
「どうする?」
と尋ねると、
「しょうがないね。今日はそっとしておこう」
葵もまた渋々ながらも、絞り出すように口にした。
結局、すごすごと帰ることになった俺と葵だったが。
帰り道。
「優里亜さんも意外と頑固だな」
俺がポツリと呟いたのを、聞いた妹の顔が、「ニヤけて」いた。
「優里亜さぁん? お兄ちゃん、いつの間に下の名前で呼ぶようになったの?」
明らかに、俺をからかっている時の彼女の顔だった。
「お前には関係ないだろ」
面倒なので、そう答えると、
「まあ、いいけど。でもね、優里亜さんは、お兄ちゃんにはもったいないくらいの人だよ。きっと、これを逃したら、お兄ちゃんは一生結婚できないね」
妹は、俺を見上げて、くすくすと笑いだしていた。
妹は、恐らく俺の気持ちに気づいているのだろう。俺は確実に「優里亜さん」に惹かれていたから。
「お前なあ。一生ってのは言い過ぎだ」
「そんなことないもーん。お兄ちゃん、モテないから」
妹の
「それに、あんなデリカシーのない質問したら、ダメだよ。優里亜さんは繊細なんだから」
「そうかな?」
「わかってないなあ。だからお兄ちゃんはモテないんだよ」
「うるさいな」
そんなやり取りを続けながらの帰り道。
「けど、あの頑固な優里亜さんをどう説得すれば、父親との仲が良くなると思う?」
俺にとっては、それは深刻な問題でもあり、割と真面目に聞いて、意見を求めたのだが。
妹の葵は、
「そんなの、お兄ちゃんが自分で考えることだね」
珍しく、彼女にしては、冷たい反応だったことに俺は少しだけ驚いていた。
なんだかんだで、昔から仲が良かった兄妹で、妹は俺に対し、あまり冷たい態度を取ることがなかったからだ。
そう思っていると、
「それに、優里亜さんの会話の中に、ヒントがあったでしょ」
それだけを彼女は口にして、後は何を聞いても教えてくれなかった。
女というのは、難しい。
それは優里亜さんを見ても、この葵を見てもわかる。
一見、優しいように見えて、時には頑固だし、気まぐれだし、たまに何を考えているのかわからないことがある。
ある人曰く。「男と女は別の生き物」だという。考え方も、物の捕らえ方も、行動原理も違う。
そんな話を昔、何かの本で読んだことがあることを思い出していた。
だが、「ヒント」と言われても、俺にはまるで「答え」がわからないのだった。
夏休みを前にして、俺と優里亜さんの間には、「難題」が立ち塞がっていた。
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