八. レイちゃんの正体

 ここからは、「俺」と「彼女」の記憶の中の話になる。


 今から10年前。

 小学校1年生の夏。


 場所は、長野県松本市。小学校に上がったばかりの頃。

 毎年、夏になると、隣に住む生方さんの家に不思議な「女の子」が現れた。毎年、夏の1、2週間くらいの間だけ現れ、いつの間にか消えている。


 そう。それはまるで「真夏の夢」のような儚い出来事。


 真っ白なワンピースを着て、長い黒髪をたなびかせた美少女は、当時、流行っていたアニメの中に出てくる、とあるキャラクターにそっくりだった。


 それは「幽霊のレイちゃん」と呼ばれていたキャラクターだった。幽霊と言っても、全然怖くはなく、むしろ可愛らしく描かれた、キャラクターだった。


 ある時、夏休みに初めて「彼女」を隣の家の前で見かけた、俺は、

「レイちゃんだ」

 と、咄嗟に呟いていた。


 瞬間、彼女は頬を膨らませて、

「わたし、レイちゃんじゃないもん。だよ」

 そう言った。


 だが、

「あ、あやの……」

「あやのこうじゆりあ!」

 幼い俺には、その「長すぎる名前」は呼びづらく感じた。


 そのため、

「長すぎるよ。やっぱりだよ」

 そう呼んでいた。


 彼女の「幼い」心を、傷つけることになるとも知らずに。


 子供というのは、時に「残酷」だ。他人の心を平気で傷つける。


 近所の子供たちに姿を見られた彼女は、

「やーい。レイちゃん」

 とからかわれていた。


 その度に、

「レイちゃんじゃないよぅ」

 泣きそうな顔でそう言っていた彼女。


 毎日のように言われ続け、次第に彼女の心は傷つき、いつしか本当に「泣いて」いた。


 さすがに、それを目の当たりにして、俺は「かわいそう」だと思ってしまった。

 彼女は何も悪くないのに、「名前」と「容姿」と「格好」が原因でからかわれていた。


 彼女の両親が、何故わざわざ、こんな「レイちゃん」みたいな格好をさせていたのかはわからなかった。


 だが、

「ごめん、レイちゃん」

 ある時、意を決して誤った俺に、彼女は、


「だからレイちゃんじゃないって」

 泣きながらそう抗議してきた。


「じゃあ、あやのこうじ、だから。それとも?」

 ようやく彼女の名前を覚えた俺がそう言うと、


「ゆりあでいいよ」

 彼女は、満面の笑みで微笑んだ。


 それがあまりにも可愛らしく、天使のように見えた俺は、胸がドキドキと高鳴ったのを覚えている。


 それから、彼女のことを「ゆりあちゃん」と呼んでいたのを、薄っすらと覚えていた。


 夏のわずかな間、俺は「彼女」と遊んだ。

 東京とは違い、北アルプスの山々に囲まれた、松本市。


 遊ぶところはいっぱいあった。

 山、川、公園などなど。


 次第に、彼女に惹かれていき、小学生にありがちな、男子からの「からかい」にも耐えていた。


 いつしか、彼女が自分の心の中で「大きな」存在になっていた。思えば、それは「初恋」だったのかもしれない。


 だが、不思議なことに毎年、夏のわずかな間だけ現れた彼女は、1、2週間すると決まって「いなくなった」。


 その消え方も唐突で、近所では本当に「幽霊じゃないか」と噂に上ったほどだった。


 だからなのだろう。

「あやのこうじ」や「ゆりあ」という名前よりも、「レイちゃん」の名前が、印象として、記憶として、強く刻まれてしまったのは。


 しかも、小学校の1年の時に出逢い、3年生まで毎年、夏のわずかな間だけ現れていた彼女が、小学校4年生以降は、ぱったりと「消えた」。


 最後に会った3年生の夏は、異常気象で、気温と湿度が高く、松本市にしては「蒸し暑かった」ことが、わずかに、記憶として残っていた。


 彼女と会って3年目の夏。なんとなく、そろそろまた「消える」と思っていた俺は、機を見て、

「来年もまた会える?」

 と聞いていた。


「うん!」

 それに、元気よく答えた彼女の笑った顔が印象に残っていた。


 その頃の彼女は、今と違い、「明るかった」。


 そして、その「約束」は果たされることなく、二度と彼女の姿を、松本市で見かけることはなかった。


 そう、それは、まるで「真夏の夜の怪談」のように、「幻」のように、「儚い」記憶だった。

 それから、8年の月日が流れ、俺の「記憶」の中から、彼女はほとんど消えていた。



 ようやく、思い出した俺は現実に引き戻され、

「でも、どうしていなくなったの?」

 一番気になっていたことを訪ねていた。


 彼女が、真夏の間のわずかな期間だけ、現れ、消えたことで、「レイちゃん」の記憶が植え付けられていた。


「それはね。祖父が亡くなったからよ」

 彼女は、静かに語る。眼鏡の縁を抑えながら。


「小学校3年生の秋。祖父が亡くなり、実は私はこっそりと松本市に帰って、葬式に出たわ。祖父のことが好きだった私には、ショックだった。その頃は、まだ父と母も仲が良かったんだけどね」

 それが恐らく、今よりも彼女が「明るかった」理由だろう。


「そうだったのか」


「でも、お婆さんは?」

「祖母は、1人で松本市にいるのが、寂しかったんでしょうね。母がいる東京に引っ越したわ」


 思い出していた。

 その生方さんが、いつの間にか引っ越していたのを。代わりに、別の「姓」の人が住み始めていたはずだ。


 つまり、幼少期のほんのわずかな間だけ、俺たちは「出逢って」いた。幼なじみでもなんでもない。


 まるで「泡」のように、消えゆく定めの、儚い関係だった。


「でも、私、レイちゃんって、あだ名、嫌いだったな」

「ごめん」


 幼い頃の、無遠慮で、無神経な自分が憎らしかった。


「いいのよ。小さい頃のことだから」


 だが、俺にはまだ納得が出来ないことがあった。

「最初に聖蹟公園で会った時、全然そんな素振りなかったけど」

 最初の出逢い、いや再会を思い出していたが。


「あれは、あなたがあの男の子という確信がなかっただけ。だから、二度目に廊下で会った時、もしかしたら、と思って、声をかけた」

 驚いた。

 あの時、彼女に声をかけられたのは、偶然じゃなく、昔と繋がりがあったからだったらしい。名前の確認を先にしなかったのは、彼女にも「俺」がその「男の子」という確信が、まだなかったからかもしれない。


「でも、さん」

 噛んだ。思いっきり。恥ずかしかった。


 それを見ていた、彼女が、珍しく、くすくすと控えめながらも「笑っていた」。

 それは、初めて俺が見る、彼女の本当の「笑顔」だったかもしれない。


「呼びにくいよね、この名字」

 それには、無言で、あえて反応せずにいると、


「いいよ、下の名前で。親しい人は、みんな下の名前で呼ぶから。というか、あなたも昔、そう呼んでいたのにね。忘れちゃった?」

 その控えめな笑顔に、胸がドキリと高鳴る。可愛らしかった。


「じゃあ、ゆ、優里亜さん」

 精一杯の勇気を振り絞ったのだが。さすがに「優里亜ちゃん」と呼ぶのは、恥ずかしくて出来なかった。


「恥ずかしがらないでよ。私まで恥ずかしくなるから」

 そう言って、彼女は目を伏せていた。


(親しい人と思ってくれたのか。良かった)

 恐らくは、交友関係が広いとは思えない彼女にとって、数少ないだろう、「親しい人」に昇格できたのだろう。


 そう思うと、嬉しく思うと同時に、どこか感慨深い気がした。

 ようやく彼女との「距離」が少しだけ、縮まった気がしていた。


 その時、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響き、俺は慌てて教室に帰るため、席を立った。


 だが、彼女は少しも慌てた素振りをみせずに、椅子に座ったままだった。


「何してるの、あや、じゃなかった優里亜さん。早く教室に戻らないと」

 だが、彼女は、そんなことなど、まるでどこ吹く風のように、気にもしていなかった。


「サボるわ」

「えっ。なんで?」


「授業なんて、つまらない。私は保健室で寝ていることにして、ここで『研究』の続きをしているから」

 どこか、浮世離れしていて、達観している。同時に、「我が道」をゆくところがある。


 そんな風に、俺の目には思えた。


 昔はともかく、今は恐らく、彼女は「幽霊」と後ろ指を指されても、気にもしていないのだろう。ある意味、「強い」人だと思った。


「しょうがない人だなあ。じゃあ、俺は戻るから」

 そう告げて、慌てて部室を出ようと駆けだした俺の背に、彼女の優しい声がかかった。


「待って、鳳条くん」

「何?」


「その……ありがとう。パスタ、とっても美味しかった」

 振り返ると、心なしか、照れ臭そうに、伏し目がちにして、静かに告げる彼女の姿が、どこか可愛らしく思えた。


「ちゃんとご飯、食べてね。じゃないと、また俺が作っちゃうよ」

 そう言い残して、慌てて俺は部室を出た。


 最後に部室の扉を閉めた後、彼女が、

「あなたが作ってくれるなら、食べない方がいいかな」

 と呟いていたのも知らずに。


 こうして、「俺たち」は「再会」した。

 運命の歯車が、ようやく動き出した瞬間だった。

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