六. お台場の昔と今
ようやく綾小路さんの、ツラい過去と、現状が少しだけわかり始めていたが、それでもまだ俺は彼女のことを正確にはわかっていなかった。
知り合って、仲良くなるほど、彼女のことをもっと知りたくなっていた。
それは「恋」なのか、それとも単なる「同情」なのか、俺自身にもわからないまま、時は移ろう。
6月。
珍しく、歴史に興味のない妹が、提案したことがきっかけだった。
その日。
梅雨らしい、どんよりした曇り空で、ポツポツと雨が降ってきていた放課後。
いつものように部室でまったりしていた。
綾小路さんは、相変わらず「本の虫」で、ずっと本を読んでいたし、時折、文献のような分厚い本を読みながら、ノートに何やら書き込んでいた。
一方、妹は本棚にある分厚い歴史書にはまったく興味を示さず、ひたすら携帯をいじっていた。
俺はというと、本棚にある、比較的読みやすい、簡易な内容の歴史の読み物を読んで、過ごしていた。
「ねえ、優里亜さん。私、今度のフィールドワークで行きたいところがあるんですけど、いいですか?」
珍しく、妹が提案していた。
「もちろんいいわよ。葵ちゃんだって、歴研部員だし」
本を読む手を止め、眼鏡の縁をわずかに持ち上げ直してから、綾小路さんは答えた。
「じゃあ、お台場。私、お台場に行ってみたいです!」
元気よく提案していたが、俺は
「葵、お前なあ。お台場に史跡なんてあるか。あそこはレジャースポットだぞ」
「いいじゃん、レジャースポットでも」
「お前。どうせ『食い物』目当てだろう」
と、彼女に注意をしていたのだが。
「いいわよ、お台場で」
てっきり否定するかと思ったら、綾小路さんはあっさりと了承していた。
「やった! ありがとうございます。」
妹が礼を述べ、綾小路さんはまた静かに書物に目を落とす。
この時は、単に彼女が妹の葵に配慮したと思っていた。
だが、真実は違った。
翌日。朝から弱い雨が降っていたが、昼過ぎには止んで、雲の隙間からわずかに陽光が顔を見せ、梅雨の間の中休みのような、ちょっとした曇り空の放課後。
俺たちは、お台場へ向かった。
天王洲アイル駅からは、りんかい線ですぐの距離にある。東京テレポート駅で降りて、後は歩きだ。
巨大な首都高湾岸線の橋げたをくぐり、まず向かった場所は、お台場の玄関口、お台場海浜公園だった。
多くの観光客や地元民で賑わうことでも知られいる場所だが、平日ということで、思いの他、人出は少なかった。
そのお台場海浜公園のビーチを横目に、綾小路さんは歩き出した。
彼女は、レインボーブリッジを右手に見ながら、真っ直ぐに奥へ向かって行く。
歩きながら、彼女が口を開いた。
「知ってるかしら? なんでここをお台場って言うか」
俺たち2人が首を振る中、彼女は静かに語り出した。
「幕末、ペリーの黒船が来航した頃。江戸幕府は強い危機感を抱いたの。そこで江戸を守るために、ここに砲台を築くことにしたの。つまり、『砲台=台場』というわけ」
「へえ」
俺も、そして妹ももちろん知らなかった。彼女の博識さには、驚かされる。
さらに、彼女の話は続く。
「元々は11~12基の砲台を築く予定だったらしいけど、お金がなくて、この品川側だけに築くことにしたらしいわ」
彼女の話は、淀みがない上に、要点をかいつまんで話すから、聞いているこちらにもわかりやすかった。ある意味、「話し上手」だった。そういう才能があるのかもしれない。
「でも、ペリーが帰ってから、また翌年来るまでの間に築かないといけなかった。だから、幕府は急いで第一から第三までの台場を築いたの」
右手に高いタワーマンションが並び、その高層建築の隙間からレインボーブリッジが見える中、さらに続く。
「さらにその後、第五台場と第六台場も完成。最終的に五基の台場が完成。江戸幕府にとっては、渾身の出来の海上防衛線だったらしいわ」
「ちょっと待って。第四は?」
「第四台場、それに第七台場も財政難で建設を断念。第八台場も造る予定だったらしいけど、未着手だったらしいわ」
「へえ」
彼女の話は面白い。
「で、結局その砲台は使われたの?」
「いいえ」
「ペリーは翌年、もちろんまた日本に来たけど、この品川の台場を見て、横浜まで引き返したそうよ」
「へえ。それじゃ、一応役には立ったんだ」
「どうかしらね。その後、すぐに日本は開国への道を歩み始めたから、結局、この台場は役目を失い、一度も使われることがなかったの」
「なんだか、もったいないね」
そう思った俺は、やはり男の考えなのかもしれない。軍事施設は使ってナンボという考えが、どうしても出てきてしまう。
話しているうちに、ようやくたどり着く。
そこはこんもりとした、小さな丘のような場所で、所々に石垣が残っていた。
「ここが第三台場よ」
彼女が来たかった、今回の場所。それがこの台場のようだった。
彼女の解説を聞きながら、第三台場を回る。
ほぼ四角形の形をしていて、陸地と繋がっているそこには、砲台跡、かまど跡、火薬庫跡、そして北西の端には史跡記念碑があった。
さらに、南西の角からは、海の向こうに、小さな人工島のような、小山が見えた。
「あれが第六台場。今、残されてるのはこの二つだけね。もっとも、あそこには上陸できないらしいけど」
彼女が指を差した向こう。丁度、右手のレインボーブリッジと平行に走る海上に浮かんでいた小さな小山、それが第六台場の跡だという。
一方、妹は終始つまらなさそうにしていたが、右手に大きく見えるレインボーブリッジを見上げて、
「あれが有名なレインボーブリッジかあ。大きいなあ」
と感嘆の声を上げていた。
妹は、4月に上京したばかりで、このお台場に来るのは初めてだったし、「海なし県」の長野県で育ったから、海が珍しいという感情もあったようだ。
その後は、「フィールドワーク」とは名ばかりになった。
妹が行きたがっていた場所に、連れていかれることになったからだ。
妹の葵が行きたがった場所、それは。
一見すると、オシャレな喫茶店にも見えるが、天井から巨大な提灯が無数にぶら下がり、そこに大きく「たこ焼き」と書かれてあった。
どうやらそこは「お台場たこ焼きミュージアム」と言うらしい。
早速、妹はカウンターに向かい、大きな看板型のメニューと睨めっこしていた。
「濃厚ダブルチーズ、イカ天ネギマヨ、バター醤油、明太マヨネーズか。どれも美味しそう。悩むなあ」
1人、おおはしゃぎしている妹を横目に、
「ごめんね、綾小路さん。妹が迷惑をかけて」
と俺はつい謝っていたが、
「ううん。そんなことない。葵ちゃんが行きたいなら、いいよ」
彼女は嫌な顔一つせずに、穏やかな表情で、答えていた。
ある意味、妹をこの部に入れて正解だったと思う。女性同士なら、彼女も気を許しやすいし、彼女は妹を気に入っている、と思わせる節があった。
結局、やたらとはしゃいで、テーブル席で食いまくり、さらに追加注文していた妹。
一方、綾小路さんは、せっかく来たというのに、相変わらず「小食」で、少し食べただけで、もう箸を止めている有り様。
そんな中、追加注文に、席を立った葵の背を見届けてから、彼女が不意に呟いた。
「葵ちゃん。かわいいし、いい名前ね」
「そうか? うるさい奴だよ」
「私、自分の名前があまり好きじゃないから」
「なんで? いい名前じゃない」
「ありがとう。この名前をつけてくれたのは父なの。でも、歴史の研究者にはふさわしくない名前だわ。私はもっと古風な名前が良かった」
「古風って、『梅』とか『花』みたいな。そっちよりいいと思うけど」
「どうしてそうなるの? 『葵』とか『
彼女の趣味、嗜好がだいぶわかってきた。要はこの子、本当に幕末好きで、しかもどちらかというと「幕府寄り」が好きだな、と。
まあ、『龍』に関しては、坂本龍馬の奥さんから来ているんだろうけど。
結局、またも食べすぎた妹が、途中で、
「お兄ちゃん~。お金足りない。奢って~」
と言い出し、
「ふざけんな。お前、それ以上、食うな」
と俺が冷たくあしらったのだが、
「いいわ、葵ちゃん。私が出してあげる」
と綾小路さんが言い出して、妹は大喜び。
(相変わらず葵には甘いな)
と、俺は思ってしまうのだった。
ここで時間を費やし、気がつけばすでに夕方。
陽がだいぶ傾いてきていた。
最後に、
「せっかくだから、観覧車乗りたい!」
またも葵がわがままを言い出した。
俺は正直、面倒だし、渋っていたのだが、今度もまた葵の願いを聞き届けたのは、綾小路さんだった。
歩いて、お台場の反対側にある、パレットタウンの大観覧車へ向かった。
結果的には、そのことが後々まで不思議な影響をもたらすことになる。
「わあ! 綺麗だねえ!」
観覧車は、平日ということで混んではいなかったから、すぐに乗れたが、乗る頃には、すでにビルの明かりが
その夕闇迫る中、妹は6人乗りの大きなゴンドラの中から、身を乗り出すようにして、窓際にへばり着いていた。
(子供め)
と俺は呆れていたのだが。
そんな葵を見る、綾小路さんの目は、少しだけ微笑んでいるようにも、優しげにも見えた。
「そういえば、この観覧車、もうすぐなくなるらしいね」
「そうなの?」
俺には、初耳だったが、彼女によると、1999年から親しまれてきた、お台場を代表するこの大観覧車は、近々、本当になくなるらしい。
何でも新たなアミューズメント施設が出来るとかで、閉館してしまうということだった。
ということは、もうすぐこれにも乗れなくなってしまうのだ。
街に歴史あり。というが、「歴史」とは何も「過去」だけのことを指すのではない。連綿と受け継がれ、そして今、この瞬間の現代でも「歴史」を紡いでいる。
およそ20年に渡って、親しまれてきたこの大観覧車でさえ、歴史の流れには逆らえないのだ。
そんなことを俺は思いながらも、妹を優しい瞳で見つめる、綾小路さんの横顔を見ていた。
同時に、彼女の言動から察することもあった。
(彼女、父のことが嫌いと言っていたけど、仲良くして欲しい)
他人の家のことは、干渉しづらいし、難しい部分があるのだが、それでも母に出て行かれ、兄弟もいなく、近くにいるたった一人の肉親である父。
その父とさえ、上手く行ってないから、この「暗い」性格の子が出来てしまったのだ。
そう思うと、彼女には、せめて「父」と仲良くしてほしいと願うのだが、それは同時に簡単には解決できない「難題」でもあった。
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