五. 彼女に笑顔がない理由

 門前仲町駅からは地下鉄東西線ですぐに目的地の駅に着いた。

 大手町駅。


 そこから降りて、向かったのが、彼女が望んだ「落ち着いて話が出来る場所」のようだった。


 皇居。旧江戸城だった。

 大手町駅周辺は、ほとんどオフィス街であり、官公庁や大企業の入ったビルが多いので、特に土日は静かなもので、皇居周辺をランニングする「皇居ランナー」の姿がよく見られるが、少し離れれば、繁華街のような雑踏や人混みとは程遠い。


 向かったのは、大手町駅から程近い、和田倉門の跡の先にある公園。

 和田倉噴水公園という公園だった。


 ここはすでに皇居外苑に当たるが、観光客が多い二重橋がある皇居前広場に比べると、地元の父母が、子供を連れてのんびり遊んでいるような光景が見られる、比較的のどかな場所だった。


 葵は、

「食べすぎたー。ちょっと走ってくるね!」

 自業自得だろうが、食べ過ぎがたたって、運動をすることを勝手に決め、俺と綾小路さんを置いて、さっさと走って行ってしまった。


「ちゃんと戻って来いよ!」

「わかってる。2、30分したら戻るから!」


 妹の後ろ姿を見送ると、いよいよ彼女と2人きりになる。

 葵は、恐らく俺からこの話を聞くつもりなのだろう。


 彼女は、和田倉噴水公園の中心にある、噴水を見ながら、ゆっくりと語り出した。

「私の両親ね。この間、離婚したの」

 それは俺には、衝撃的な事実だった。


 この子には、何かあると思っていたが。高校生と言えば、思春期真っ盛りで、言わば「大人と子供の中間」。まだまだ母親が必要な時期に、離婚を経験するのは、想像できないほどツラいことなのかもしれない。


「そうか。だから……」

 と言いかけた俺の言を制し、彼女は続けた。


「いや、別に離婚のことはしょうがないと思ってるのよ。所詮、男女の仲なんて、いつ崩れるかわからない。たとえ『永遠の愛』を誓ったとしても、それは儚いものよ」

 どこか、遠くを見つめ、達観したように呟く彼女の姿が印象的に映ったが。


「じゃあ、どうして……」

 どうして、そんなに「悲しそう」なのか、と聞きたかったが、最後まで言えなかった。


「前に言ったよね。私、大学に入って歴史の研究者になりたいって」

「うん」


「父がね。猛反対してるの」

「お父さんは何をしてる人?」


「会社の社長よ」

「社長? すごいね」


「全然すごくないわ」

「えっ」


 俺の驚きに対し、彼女は冷めたような瞳を中空に漂わせて続けた。

「同族経営って知ってる?」

「うん。まあ、聞いたことはあるけど」

 とは言ったものの、正直あまり詳しいことは、俺は知らなかった。


「要は、創業家一族で会社を経営し、その一族が会社の上位3株主の持ち株50%以上を越える会社のことよ」

「なるほど」


「日本にも、世界にも、この手の同族経営は多いんだけど、ウチは全然小さな会社なの」

「そうなんだ。何をしている会社?」


「元々は、健康食品を売ってる会社。今じゃ、手広くやってるみたいだけどね」

 その言い方からして、彼女は明らかに「会社」に対し、いい感情を持っていないように、俺には見て取れた。


「父はね。とにかく『仕事の虫』なの。家庭をかえりみることなく、ひたすら仕事に没頭。母が出て行くのも当たり前だわ」

 もうこの辺りから先は、聞いていて、痛々しいほどの、「家庭の事情」になっており、他人の俺としては、正直どうしていいかわからなくなっていた。


「でも、そんな父が、私だけは絶対、手放さずに『親権』を取ったの。何故だかわかる?」

「えーと。綾小路さんに跡を継がせたいから」


「そう。まあ、正確には、『一旦、私に継がせた』後で結婚相手の男性に会社を継がせるつもりでしょうね。所詮、日本は男社会だから」

 その物言いが、男性の俺には、痛いほどわかるし、聞いていてもツラいが、彼女は曲りなりにも「社長令嬢」だから、この年で早くも「結婚」を意識しているのかもしれない、と考えると、もう別の世界の住人にすら思えてくるのだった。


高嶺たかねの花か)

 まさにそんな言葉が思い浮かぶし、もし将来、この子と俺が結婚することになったとしたら、俺がその会社を継ぐ可能性すらある。


 ある意味では、「危険」な香りすらしてくるし、人生を左右しかねない。


 これでようやく彼女が「暗い」理由がわかった気がした。

 だが、それ以外に俺には彼女に対する疑問も残っていた。


 それは、何故そんなに「病弱」で「痩せて」いるか。社長令嬢なら、そこそこいい食事を取れるはずだ。


「大体わかったけど、綾小路さん、ちゃんと食事摂ってる?」

 それとなく聞いてみると、


「正直、摂ってないわね」

 ある意味、予想通りの回答が返ってきた。


「なんで?」

「忙しいからよ」


「忙しい? 何で?」

「今の私には、日本史の勉強が全て。さっさと高校を卒業して、大学に行って、大学院に進んで、そのまま研究者になりたいの。そして、父に文句を言わせないくらいの研究者になるの」

 それを聞いて、何となくだが、察した。


 要はこの人、「研究者」にありがちな性格なのだ。好きな研究に没頭しすぎ、集中しすぎて、食事を摂ることすら忘れてしまう。

 それにしても、彼女はどこか「生き急いでいる」ようにも見える。


 もっと人生、のんびり構えてもいいはずだ。


「それに、私は一人暮らしだしね」

「そうなの? 社長令嬢なのに。いい家に住んでるんじゃないの」

 そう、俺は何気なく発したが、


「やめて、そういう言い方」

 珍しく、大人しい彼女が怒気を露わにしていた。

 鋭く、冷たい一言が返ってきて、俺は少しだけ、自分の軽率さを後悔した。


「ごめん」

「ううん。私こそごめん。社長令嬢って言い方、好きじゃないの。それと、私は父が嫌いだから、勝手に家を出て、1人で生活してるだけ。別にいい家にも住んでないし、生活費を稼ぐために、アルバイトもしてる」


 あれだけ日本史の勉強が好きで、よく本を読んでるのに、さらにアルバイトまでしているとは。


 俺も、たまにアルバイトをしているが、せいぜい「生活費の足し」程度で、家賃や生活費の大半は、両親からの仕送りに頼っている。


 彼女は、父と対立している部分があるから、頼れないのかもしれないが、頑張りすぎだ。


 どこか、儚げで、暗くて、固い。


 そんなイメージがある彼女。

 だが、話を聞いて、ようやく彼女の「事情」が見えてきた。余人には想像も出来ないような、ツラい過去を背負ってきたのかもしれない。そして、今も恐らく「苦しんで」いる。


 それでも、一つだけまだわからない点があった。

「なんで、いつも携帯じゃなくて、デジカメで撮るの?」

 つまり、いつも史跡に行くたびに、彼女は必ずデジカメを用意して、デジカメで撮影したいた。今時、携帯電話でも画素数の高い写真が撮れるのに、珍しいと思った。


「それは、このデジカメが母との思い出だから」

 意外な答えだった。


「母は、とても優しい人でね。家庭を省みない父に代わって、私の面倒をよく見てくれたし、私の夢も応援してくれた。だから、小さい頃からの、母との思い出の写真が、このカメラには全て詰まってるの」

 そう言って、自身のデジカメを改めて見せてくれた。


 それは、決して高価なものではなく、一般的な家電量販店に売っているデジカメだった。


 カメラを趣味とする人が買うような一眼レフでもない、値段的にはせいぜい3~5万円程度の、どこにでもある小さなデジカメ。


 だが、彼女によれば、そのデジカメのメモリーカードには、「母との思い出」の写真が詰まっている。


(やっぱり彼女は、優しい人だ)

 父と合わなくて、自分から離れていった母。それでもまだ母との思い出を大切にしたいのだろう。


 ようやく彼女のことが少しだけわかった気がした。

 だが、同時に俺の中では、別の問題が湧き上がってくる。


(この子と仲良くなれば、今度はその父親が障害になる)

 娘に跡を継がせたい、仕事漬けの父親。


 見るからに、「手強そう」な予感がした。


 やがて、妹がランニングから戻ってきた。

 その無邪気な笑顔を見て、「我が家は平和」だと常々思ってしまうのだった。


 他人の家庭の事情ほど難しい問題はないし、簡単には踏み込めないから、これは後々まで尾を引く難しい問題だ、と認識するしかなかった。


 ただ、それでも俺は彼女に一言だけ言いたかったことがあった。

「でも、綾小路さん。食事はきちんと摂ろうね。体に悪いよ」

 そう真正面から彼女に言うと、


「わかったわ。気をつける」

 一応は、そう言ってくれたのだった。

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