四. 彼女を笑わせる計画

 歴史研究部に入ってから、およそ1か月後。

 その時は来た。


 東京都江東区にある「富岡八幡宮」。そこで縁日が開かれるという情報をネット検索から掴んだ。


 しかも、この富岡八幡宮では、毎月1日、15日、28日に縁日を開催し、様々な屋台が並ぶという。


 この辺りは、さすがに人口が多い東京らしく、その分、氏子うじこの数も多いから、神事しんじやお祭りの類が多いのだそうだ。


 とりあえず、妹が喜びそうな場所は見つけた。


 だが、同時に、俺は「彼女を笑わせる計画」にも着手する。


 5月15日。その日が土曜日で、縁日の開催の日。綾小路さんには木曜日に提案したら、「人混みは苦手だから嫌」と最初は断られていた。だが妹の勧めもあって、渋々ながらも了解してくれた。やはりこういう時に、妹をこの同好会に入れて良かったと思うのだった。俺だけでは、聞いてくれない可能性があった。


 金曜日。直前になって、俺は家で夕食の食事中に、妹に提案することにした。

 ちなみに、その日は俺特製の「肉じゃが」を作っていた。男でありながら、俺は料理は手慣れている。


「葵。次のフィールドワークの時、お前に頼みがある」

「なになに?」

 美味しいものを食べている時、人は自然と笑顔になり、そして特に食べ物にうるさい葵は、上機嫌になりやすかった。


「綾小路さんを笑わせたい」

「え、優里亜さんを」

 いつの間にか、仲良くなった彼女は、「綾小路先輩」から「優里亜さん」と下の名前で呼んでいた。


「そうだ。耳を貸せ」

 誰も聞いていないのに、思わずそう言って、妹に耳打ちして、作戦を伝えると。


「あはは! いいね、それ。面白そう!」

 彼女は大袈裟に、大きな笑い声を上げていた。


「だろ?」

「お兄ちゃんにしては、面白い作戦だね」


「だからお前は一言多いんだよ」

「まあまあ」


「優里亜さん。綺麗なのに、全然笑わないから、私も気になってたんだ」

 そういう風に思っていた辺り、なんだかんだ言っても、俺たちはやはり似た者同士の兄妹なのかもしれない。



 当日。

 昼頃に天王洲アイル駅で待ち合わせをした。


 初めて制服以外での彼女が見られる。

 と、内心、期待していた俺だったが。


 その日の彼女の格好は、何とも味気がなかった。

 よりにもよって、茶色の、どこか地味なセーターを着て、肌を隠すようにしているし、下もスカートではなく、ジーンズだった。


 それでもスタイルの良さだけは、服の上からでもわかるのだが、それにしても「痩せすぎ」に見えるのは、やはり少し心配にもなる。


 ひとまず、「縁日、楽しみ!」と、最初からテンションが上がりっ放しの妹とは、まるで正反対に、いつも通り、いや恐らく人混みに行くから、いつも以上にダウナー気味の彼女を連れて、電車を乗り継ぎ、そこへ向かった。


 門前仲町もんぜんなかちょう駅を降り、少し歩くと、早くも賑やかな「お囃子はやし」の音が聞こえてきて、人の流れも増してくる。


 そして、驚くべきことに、この「富岡八幡宮」から通りを挟んで、すぐ向かい側にある「深川不動尊」でも、同じ日に縁日が開かれるという。


 しかも、ネットで調べた情報だと、屋台の数は300以上というから圧倒的だ。


 鳥居をくぐった瞬間、妹はもう食べ物の「とりこ」になっていた。

 色とりどりのカラフルな天幕のような屋根、暖簾のような形の屋台が通りの両側に所狭しと建ち並び、派手な宣伝ののぼりが林立している。


 少し見るだけでも、あんず飴、わた飴、からあげ、たこ焼き、焼きそば、焼き鳥、大阪焼、フランクフルト、じゃがバター、チョコバナナ、お好み焼き、フライドポテトなどなど。


 もう数えきれないほどの屋台だ。


 目を輝かせた妹が、

「お兄ちゃん、優里亜さん。ちょっと行ってくる!」

 もう待ちきれない様子で、駆け足でさっさと行ってしまい、俺たちは取り残されていた。


 その様子を見て、

「葵ちゃん。本当に元気で、かわいい。羨ましい」

 そっと口にした綾小路さん。雑踏の中で、注意していないと聞き取れないくらいの小さな声だった。


 俺は、

(あいつ、作戦のこと忘れてるんじゃねえだろうな)

 むしろ、そっちの方を心配していた。


 妹は、「食べ物」のことになると、目の色が変わるのだ。


 残された俺たちは、仕方がないので、妹を待ちつつも、境内を練り歩き、屋台を冷かしながら、話していた。


 正確には、この富岡八幡宮の由来を聞いた俺に、綾小路さんが丁寧に解説をしてくれていた。


 曰く。創建は寛永かんえい四年(1627年)。通称を「深川八幡宮」とも言い、江戸最大の八幡宮で、毎年八月に行われる「深川八幡祭り」は江戸三大祭りの一つという。

 江戸勧進かんじん相撲発祥の地で、大相撲ゆかりの石碑が境内には多数あるという。

 また、八幡神を崇拝していた徳川将軍家の保護を受け、庶民にも「深川の八幡様」として親しまれていたという。


 だが、そんな歴史を滔々とうとうと語る彼女の表情は、やはりどこか「影」があった。


 その彼女の「闇」を少しでも取り払ってあげたい。

 そう思って、この作戦を考えたのに、肝心の妹は、どこかへ行ってしまった。


 と思ったら。

「ほら、見て見て!」

 子供のようにはしゃぎながら戻ってきた葵の両手には。


 右手にフランクフルト、左手にはわた飴、そして器用にもその右手の余った指を使って、チョコバナナを食べていた。チョコバナナは葵の大好物だ。


「お前。食いすぎだ。太るぞ」

「いいんだもーん。この後、運動するし」

 などと言っていたが。


 それでも、やはり隣にいた彼女は、わずかに微笑むのみ。


 仕方がない。

 そろそろ作戦を実行に移そう。


 妹が食べ終わるのを待ってから、俺は、

「せっかくだから、写真撮ろうか」

 と提案し、綾小路さんと妹を並んで立たせる。


 綾小路さんは、遠慮がちに写真を撮られることを嫌がっていたが、妹がその彼女の左腕に、自分の腕を絡め、

「優里亜さん。そんなこと言わずにぃ」

 と甘えるような猫なで声を出したため、葵には弱い彼女は、渋々、苦笑しながらも頷いた。


 携帯を構える俺。


 だが、妹の葵に、ほとんど抱きつかれるような格好なのに、それでもなお綾小路さんの表情は予想通り、「固かった」。


 ここからが作戦だ。妹が絡みついたのは、作戦の内だったのだ。

「今だ、葵!」

 そう合図を送ると、


「ラジャー!」

 の、掛け声と共に、葵は動き出した。


「あははは!」

 綾小路さんは、見たこともないような笑顔で、盛大に笑っていた。

 その脇の下から妹がくすぐり攻撃を始めていたからだ。


 すかさず、俺はシャッターチャンスを逃さずに、携帯から撮影。

「やめて、葵ちゃん! 鳳条くんも撮らないで!」

 珍しく、声を荒げるものの、反面、脇の下を常に攻撃されて、もだえるように身をよじる綾小路さんは、どこか色っぽい上に、年相応に可愛らしかった。


(やっぱり笑うとかわいい)

 改めて、眼鏡越しでもわかるその笑顔を見て、もったいない、と思ってしまうのだった。


 一通り写真を撮り、ようやく妹が綾小路さんを解放する。

「どうして、こんなことするの?」

 さすがに少しやりすぎたか。恨めしそうな目で、こちらを見る綾小路さんの視線が痛い。

 だが、ここでひるむわけにはいかない。


「君の過去に何があったのか、なんでそんな悲しそうな顔をしているかは俺は知らない。けど、やっぱり笑った方が楽しいでしょ」

「そうですよ、優里亜さん。『笑う門には福来る』です」


 兄妹揃って、そうさとすように告げると、綾小路さんは溜め息を突いて、

「わかったわよ。でも、ここは騒がしいから、場所を移してから話すわ」

 ようやく折れてくれた。


 彼女に「笑顔」がない理由がわかるかもしれない。

 そう思い、「まだ食べたりないよう」と泣きそうな顔をしている妹を説得し、俺たちはこの富岡八幡宮を後にする。


 ところが、最寄りの門前仲町駅まで向かう途中の会話で、

「それにしても、2人とも仲がいいよね。私、兄弟いないから羨ましい」

 と何気なく発した綾小路さんの質問に答えた、妹の発言が俺の肝を冷やすことになる。


「はい。だって、同棲どうせいしてますから」

「えっ、同棲?」

 さすがに目を丸くして驚く綾小路さんの姿に、俺は焦るしかなかった。


「同居だ、同居! 同棲って言うな! 恋人みたいだろ」

「どっちだっていいじゃん」

「良くねえ!」

 妹は俺をからかって遊んでいるのか、と思うほどだったが。


「ふふふ」

 それを見ていた綾小路さんは、意外にも楽しそうに笑っていた。

 彼女の顔にようやく「笑顔」が戻った時。


 だが、それはまだ「心からの笑顔」ではなかった。

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