三. 初めてのフィールドワーク

 翌日の放課後。

 葵とLINEでやり取りをして、待ち合わせてから、歴史研究同好会の部室へ向かった。


 その前に、一応、綾小路さんとはLINEを交わしていたから、新しい入部希望者を連れていく、とは言ってある。


「ねえ、お兄ちゃん。その綾小路さんってどんな人?」

 一応、あらかじめ、上級生の女子が1人いることを妹には伝えていた。妹にしてみれば男子より女子がいる方が都合がいいだろう、とも思ったというのもある。


「大人しくて、綺麗な人だ」

「なになに。お兄ちゃん、好きなの?」


 当然ながら、予想通りというか、妹のからかうような視線と表情が飛んでくるが、俺は正直に、


「わからない」

 とだけ答えておいた。


 部室に入ると、くだんの綾小路さんはすでにいて、いつものようにテーブルの向こう側の椅子に座って、静かに本を読んでいたが。


 視線を上げて、妹の姿を眼鏡の奥から捕らえると。

「鳳条くん。その子、彼女?」

 いつものように、無表情のまま言葉を投げかけてきた。

 表情が全く、いつもと変わらないのが、返って不気味にすら思える。


「違うよ。妹」

 慌てて説明するも、


「妹? どうしてそんな嘘をつくの?」

 彼女は全く信用してくれないのだった。


「嘘じゃないって」

「嘘。だって、全然似てないじゃない」


「よく言われるよ」

「え。じゃあ、ホントに妹さん?」


 俺たち2人のやり取りを見ていた、葵が元気よく、俺の脇から飛び出して綾小路さんに挨拶をしていた。


「はじめまして! いつも兄がお世話になってます。妹の葵です。綾小路先輩ですよね。よろしくお願いします」

 そう言って、綾小路さんが座る目の前の机に手を着いて、元気よく声をかける葵に対し、


「か、かわいい……」

 綾小路さんが、今まで見たこともないような、それでも薄っすらとした笑顔を浮かべ、テーブル越しに、


「よろしく。綾小路優里亜よ」

「はい。先輩も綺麗ですよ」

「あ、ありがとう」


 すっかり意気投合していた。


 俺には少しだけ意外だった。「幽霊」のあだ名通りに、物静かというよりも、むしろ「暗い」綾小路さんと、まるで正反対の「明るい」妹。


 性格的には、「合う」とは思えない2人だと思ったからだ。

 だが、「同族嫌悪」という言葉がある通り、人は自分と違っている人間に惹かれることもあるというから、不思議ではないのかもしれない。


「葵ちゃんか。『葵の御紋ごもん』と同じ名前なんて、素敵ね」

「葵の御紋って何ですか?」

 早速、日本史における「葵の御紋」について丁寧に解説する綾小路さんと、それを聞いても何だかパッとしない表情を浮かべている葵が印象的だった。


 こうして、無事に「同好会」として最低限の3人は集まった。


 そこで、俺は同好会の実質的な部長と言える綾小路さんに提案することにした。

 フィールドワークに行こう、と。


 だが、同時に思ってもいた。

 妹が、「つまらない」と言うべき場所だけは避けようと。妹が「つまらない」と言い出すと、部を辞めかねない。


 そうすると、俺と綾小路さんの時間は、なくなってしまう。


 苦肉の策として、俺はネットで検索した「猫」スポットを提案する。都内には、猫が集まる「猫スポット」がいくつかあるが、その猫スポットは、歴史にも深く関わっており、フィールドワークにも適しているし、場所的にも近かったからだ。


 綾小路さんは、少しだけ表情を緩めながらも、了承してくれた。



 その場所には、品川から京急に乗り、三田で都営三田線に乗り換えて、御成門おなりもん駅で降りて、歩いて10分ほどで着いた。


 目の前には、大きくて真っ赤な鳥居が、ビルに埋もれるようにして建っており、何よりも目の前の光景が圧巻だった。


 長く、そして高く伸びる石段。

 ものすごい傾斜の階段で、段数は86段はあるらしい。

 この石段を通称「出世の石段」と呼び、この神社を「愛宕あたご神社」と呼ぶ。


「すごっ! 何、この石段!」

 妹が、見上げるようにそびえたつ、急な石段を見て、大袈裟に驚いていた。


「出世の石段ね」

 綾小路さんは、相変わらず、携帯ではなく、デジカメでその石段を下から撮影していた。


「出世の石段?」

 カメラを目から離し、彼女は、


「上りながら説明するわ」

 とだけ言って、階段を上がって行く。


 どうでもいいが、相変わらず表情のない人だ、と俺は思っていた。


「時は、江戸幕府三代将軍、徳川家光の治世。この愛宕神社の梅が満開の頃、その下を通った家光一行。その見事な梅を見て、家光は『誰か、馬であの梅を取って参れ』と言ったそうよ」


「いやいや、無茶ぶりすぎっしょ」

 俺がそう言ったのにも、彼女は、笑いもせずに、


「そうね」

 とだけ返してきた。


「それで?」

 妹が先を促す中、彼女は再び語り出す。


「さすがにこの急な石段を見て、家臣たちは、皆うつむき、名乗りを上げる者はいなかったそうよ」

「そりゃ、そうだろうな」


「ところが、四国の丸亀まるがめ藩の家臣、曲垣まがき平九郎という武士が、颯爽と馬で駆けあがり、家光に梅を献上。それ以降、無名の武士だった彼は、『日本一の馬術の名人』としてその名が広がったという話よ」


「なるほど。それで『出世の石段』か」

「そういうこと」


 話している間に、ようやく石段の頂上に着いた。

 石段は思った以上に急斜面で、特に最後の10段あまりは、下よりもさらに急になっており、足を踏み外したら、間違いなく怪我をするだろうというレベルだった。


 慎重に上がった先に、社はあった。


 手水舎ちょうずやで、手を洗い、いよいよ参拝する。

 三人揃って、賽銭箱に小銭を入れて、お参りをした。


 終わった後、

「お兄ちゃんはちゃんと願った方がいいよ。出世できなさそうだから」

 妹のからかいに、

「お前は一言多いんだよ」

 拳を振り上げ、怒る素振りを見せていた俺だったが。


 綾小路さんは、それでも全然笑っていなかった。


 境内を回る。小さくて、鮮やかな朱色の末社があったり、同じく鮮やかな朱色の柵に囲まれた小さな池があり、厳かな雰囲気だったが。


 参拝客用に置かれた、横長の椅子。

 そのすぐ近くに、目当ての物がいた。


「猫だ!」

 妹が弾けるような笑顔で、猫に向かって行く。


 猫は3匹ほどいて、茶虎と三毛猫と、真っ白な猫だった。

 しかも、人に慣れているのか、全然怖がらずに、逃げもしなかった。


「うりうりー」

 妹が猫の顎を触り、遊び始めた。


 チャンスだ。

 俺は、その間に綾小路さんに聞いてみた。


「綾小路さん。あっちに、勝海舟と西郷隆盛の記念撮影用のパネルがあったんだけど、何で?」

 来る途中に、見かけた、いかにも観光地によくある、顔の部分だけくり抜かれたパネル。

 それがなんでこんな場所にあるのか、気になっていたからだ。


「ああ。それはね。江戸城無血開城の会談がここで行われたから、と言われているわね」

「へえ」

 一応、日本史の授業で習ったし、その前から知識としては、江戸無血開城のことは知っていた。

 幕末の戊辰ぼしん戦争で、薩摩や長州が江戸に攻めて来た時に、江戸を火の海にするつもりだったけど、幕臣の勝海舟が、薩摩の西郷隆盛と交渉して、回避されたという話だ。


「ちょっと歩こうか」

 そう言って、相変わらず表情のない彼女は、歩き出した。


「ここはね。今でこそビルに囲まれてるけど、昔は、江戸で一番高い場所だったの」

「へえ。標高は?」


「25メートルくらいだったかな」

「25メートルしかないのに、一番高いの? 今じゃ東京スカイツリーがあるから、えーと25分の1くらいしかないってことだよね」


「そうね」

 しばらく歩いた後、彼女は、例の長い石段の上から下を見下ろした。


「ここから江戸の街を見下ろした、勝海舟が、『この江戸を火の海にするのはもったいない』とかなんとか言ったらしいよ」

「詳しいね」


「私、これでも幕末には詳しいの。将来、大学に入って研究者になりたいから」

 初めて彼女の口から、「将来の夢」が語られていた。


 周りから「幽霊みたい」と言われ、いつも不健康で、病弱そうに見えて、表情もほとんど変わらない彼女。


 眼鏡の奥で一体何を考えているのか、さっぱりわからなかったのだが、それでも彼女にはそれなりに目標があることがわかって、俺は少しだけホッとするのだった。


(やっぱり彼女は「幽霊」なんかじゃない。ちゃんとした女性だ。しかも綺麗だし)

 そう思うと同時に、


(でも、やっぱり『固い』んだよなあ。せっかく綺麗なのにもったいない)

 心の底で強く思っていた。


 俺は、個人的に「女性は笑顔の方がかわいいし、魅力的」だと思っているし、恐らく世の中の大半の男性はそう思っているだろう。女性もそう思っているかもしれない。


 だが、彼女には、「笑顔」がない。


 たまに「微笑む」程度のことはあったが、何だか「無理をしているような」儚くて、消え入りそうな笑顔で、それは到底「笑顔」とは言えないものだった。


 歴史の講釈を語る時も、饒舌じょうぜつにこそなるが、表情は固かった。


 俺は、心の中で、密かに決心することにした。

(何とか彼女を笑顔に出来ないだろうか)


 と。

 歴史研究部という、この部活に入ったものの、俺の興味は「歴史」そのものよりも、むしろ「彼女」に向いていた。

 彼女の過去に何があって、何が原因で、こんなに「暗く」なってしまったのかわからないし、無理に知ろうとは思わなかったが、それでも「笑って」欲しいと思った。



 ちなみに、フィールドワークが終わって、妹と家に帰る途中。

「お兄ちゃん。美味しい物を一杯食べれるって話はどうなったの?」

 やっぱりというか、予想通り妹に鋭く突っ込まれていた。


 仕方がないから、俺は次のフィールドワーク先に、とある「神社」を提案することにした。そこで近々「縁日」が開かれることが、ネット検索でわかったからだ。

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