16.すれちがいの果てに
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パーティーで、クロエはダレルの父と会う。
〝永遠の時をいだく天使〟をめぐって、何か誤解があるようで……。
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ダレルの父とふたりで残されたクロエは、緊張にこわばった笑みを浮かべて目の前の男性を見つめた。髪に白いものが混じっているとはいえ、とてもハンサムな人だ。きちんと整えられた口ひげがよく似合う。緑色の目がダレルとよく似ていた。そして自信に満ちた物腰と口調も。
「わたしの誤解なら申し訳ない、ミス・デュカキス」ダレルの父が言った。「わたしはもう、すっかり話がついたものと思って……。いや、ゆっくり考えていただいてけっこうですよ」
「あの、わたし、お売りする気はまったく……」
「どうも気が早くていけないね」クロエの話には耳を貸さずに続ける。「じつは、わが社が内装をお手伝いした新しい美術館に、あれを置こうと思っているんですよ」
「えっ」クロエは青ざめた。そんな話はダレルからひと言も聞いていない。
「美しいイースターエッグとサプライズの天使像は、きっと話題になる。さっそくそれを目玉にした展覧会の話も持ち上がっていましてね。あなたにもぜひご賛同いただきたい」
「そんな……」天使像は母の遺品だ。ずっと手もとに置いておくためのものだ。ニューヨークの美術館に展示するなんてとんでもない。
「いや、それよりまずは、その天使像をぜひひと目見せていただきたい。あなたも、イースターエッグをご覧になりたいでしょう。ほんとうにすばらしい工芸品ですよ。あすは土曜ですから、ぜひわが家へいらしてください。妻もたいへん楽しみにしていましてね」
「あの……」
「ああ、ダレルが戻ってきた」
入口に目を向けると、ダレルが早足でこちらへ向かってくるところだった。しかし、先ほどの宝石店の娘エミリーが声をかけ、ダレルを立ち止まらせた。親しげに彼の腕に手を当て、タキシードの生地を撫でるようにしながら、首を傾けて笑いかける。ダレルはにこやかに応じ、ふたりはしばらくなにやら話していた。
「あのぶんなら、結婚ももうそろそろかな」ダレルの父がほくそ笑むように言った。
「結婚?」クロエはきょとんとしてきき返した。
「いや、ダレルももう三十ですからね。まだはっきりとは聞かされていないのですが、たぶんエミリーと婚約するでしょう」
クロエは呆然とした。
「ミスター・バリモアとのあいだで、そんな話が進んでいましてね。得意先の娘さんとなら、わたしも大賛成だ。これで宝物の相続先についても安心というわけです」ダレルの父が笑った。「いや、余計なことを言いました。今の話、ダレルにはないしょにしておいてくださいよ」
クロエが何も答えられずにいるうちに、ダレルがこちらへ戻ってきた。
「クロエ、すまない」ダレルが顔をしかめて言った。「きのうの昼間に連絡があった得意先で、ちょっとした問題が持ち上がってね。これからまた行かなくてはならなくなった。まだここにいるかい? それとも部屋に戻る?」
「わたし……きょうはもう休むわ」
ダレルがうなずいた。「部屋まで送ろう。父さん、それじゃあした」
「ああ。ミス・デュカキス、それじゃ、あすはお待ちしていますよ」
「失礼します、ミスター・プレストン」
ダレルに伴われて、ボールルームをあとにした。無言のまま、ぼんやりと部屋まで歩く。ダレルの父の言葉が頭に渦巻いていた。天使像……美術館……そしてダレルの婚約者。
「父に何か言われたのか?」ダレルが心配そうにきいた。「天使像を売る話は、気にしないでくれ。どうも父にはせっかちなところがあってね。なんでも自分の思いどおりに進むと信じて疑わないんだよ」
部屋に入ったところで、クロエは言った。「お父さまが……〝卵〟と天使像を美術館に置くつもりだって……」
「そう言ったのか?」
「お父さまがそういう計画を持ってるって、知っていたの? あなた、そんな話はひとつもしてくれなかったわね」
「いや、ちらっと聞いたことはあったが、具体的に進めているとは思わなかった」
「どうして教えてくれなかったの? わたしがそんな提案に応じないことはわかっていたでしょう? 教えたら、ニューヨークに呼び寄せられないと思ったから?」クロエは責めるように問いただした。
「クロエ、待ってくれ」ダレルが片手を上げて、押しとどめた。「そういうことじゃないんだ。あしたきちんと説明するよ」
「あしたでは遅いわ。今ここで説明して」
ダレルがもどかしそうに時計を見た。「今は行かなければならない。昼間のホテル経営者が、届いたチェストが気に入らないので取引を中止したいと言い出した。それが嘘だということはわかっているんだ。こちらの誠意を試す、いつもの彼の作戦さ。しかし、ぼくが顔を出さなければ、ほんとうに取引を中止しかねない。そういう男なんだ」
あわただしくクロエの唇にキスをする。「あした朝十時に迎えにくる。そのときゆっくり話そう」それだけ言うと、振り返りもせずに部屋を出ていった。
ひとり部屋に残されたクロエの胸には、寂しさと不安が渦巻いていた。
クロエはぼんやりベッドに座り込んだ。きのうからの出来事が頭を駆けめぐっていた。
立派なショールームと社長室。豪華なパーティー。これまでの人生で、クロエが一度も目にしたことがなかったものばかり。
でもあれが、ダレルにとっては日常なのだ。わたしとは、住んでいる世界がまったくちがう。
宝石店の娘エミリーを思い出した。赤いドレスを着た金髪のきれいな人。タキシード姿のりりしいダレルと並んだ姿が目に浮かぶ。たしかに、とてもお似合いのカップルに見えた。そう、ああいう人がダレルにふさわしいのかもしれない。
ダレルの父の言葉がよみがえった。〝たぶんダレルは、エミリーと婚約するでしょう〟
ほんとうなのだろうか。ダレルは昨夜、わたしにプロポーズした。婚約者がいながら、そんな不誠実なことをする男性とは思えない。たぶん、お父さまの早とちりなのだろう。それでも、父親同士がふたりの婚約を望んでいることはまちがいなさそうだった。
そして、イースターエッグと天使像を美術館に展示する話。あれはいったいどういうことだろう。もしそれを前提として、すべてが進められているとしたら?
不意に、クロエの背筋に冷たいものが走った。
あした天使像をダレルの実家に持っていって、イースターエッグに収めたら……。あの押しの強いお父さまと、天使像を楽しみに待っているお母さまに囲まれたら……。きっと〝永遠の時をいだく天使〟は奪われてしまうだろう。
どうしよう。ニューヨークに来たのはまちがいだった。
クロエは両手をぎゅっと握り締めた。
わたしは何を考えていたのだろう。ダレルに会いたくて……ダレルが恋しくて……。
いいえ、それだけではない。彼ともし結ばれたなら、〝卵〟と天使像を出会わせてひとつの形にできる、なんて自分に都合よく考えていたんじゃない?
わたしだって、あちらのご両親を責められない。同じようなことを考えていたのだから。
クロエはがっくりと肩を落としてうつむいた。
サフォロス島に帰ろう。帰らなくては。
あしたの朝、ダレルが迎えにくる前に。彼に会ってしまったら、もう離れられなくなる。それはわかっていた。
クロエはこぼれ落ちる涙をぬぐい、荷物をまとめ始めた。
翌日の夜、ダレルは自宅で呆然としていた。部屋の隅には、リッツカールトンのフロントに預けられていた大きな箱が放り出してあった。なかに入っていたのは、マリンブルーのドレスと、靴とバッグとダイヤモンドのネックレス、そして〝受け取れません〟というメモ。
クロエがサフォロス島の自宅に到着したころを見計らって、ダレルは電話をした。
「どういうことなんだ? なぜ黙って帰ってしまったんだ?」ダレルは受話器に向かって責めるように言った。
「ごめんなさい。でももう何もかも、終わりにしてほしいの」か細い声が返ってきた。
「どうして? 美術館のことなら、あれは誤解だ。父が勝手に進めていたことなんだ」
「もうそのことはいいわ」
「話を聞きさえしないのかい? なぜそんな自分勝手なことができるんだ?」
「あなただって、わたしの話を聞いてくれなかったじゃない!」クロエが先ほどより強い口調で言った。「パーティーのあと、美術館のことをきちんと説明してほしかったのに、あなたは急いで立ち去ってしまって……」
「あのときは仕事で、どうしようもなかったんだ」
「わたしの父も、そういう人だったわ」クロエが低い声で言った。「いつも忙しくて、家庭を顧みなかった。母の話をちゃんと聞こうとはしなかった」
「クロエ……」
「あなたとうまくやっていける自信がないの。それに、〝永遠の時をいだく天使〟は絶対に手放さない」
「もうぼくのことはなんとも思っていないと言うのか?」
クロエがじっと黙り込んだ。「……さようなら。いろいろありがとう。楽しかったわ。でも、もう電話しないで」
その言葉を最後に、電話はぷつりと切れた。
ダレルはため息をついて、髪をかきむしった。
このままではだめだ。決着をつけなければ。
ダレルはソファーの上に放った携帯電話を拾い上げて、先ほどとはちがう番号を押した。
「父さん、あしたの朝十時に行きます。ああ、天使像のことも、あした話しますから。では」
翌日、ダレルは実家を訪れ、父の書斎の扉をばたんとあけると、いきなり切り出した。
「クロエに何を言ったんです?」
ソファーに腰かけてくつろいでいた父が振り返った。ひざにのっていた愛猫のリリーが、ぱっと飛び降りてひと声鳴いた。
「ああ、来たのか、ダレル。ミス・デュカキスはなぜ帰ってしまったんだね? せっかく母さんも楽しみに待っていたのに……」
「父さんが、決まってもいない展覧会のことなんか話すからですよ」
「どうしていけないんだ? 世にも美しい工芸品だよ。人々に公開するのを楽しみにして何が悪い?」父が不思議そうに尋ねた。
「あれは、クロエにとっては母親の形見なんです。いつまでも手もとに置いておきたい宝物なんだ。展示なんて承知するわけがありません」
「しかし、わたしたちが買い取るんだろう。そのための資金も用意したじゃないか」
「いいえ、買い取りません」ダレルはきっぱりと言った。「ぼくは、〝卵〟のほうも、クロエに返すつもりです」
「返すだって? あれはわたしの財産だよ」
「もともとは、デュカキス家の家宝です。正当な持ち主に返すのが筋でしょう」
「何を言うんだ。あれはわたしの祖父のフレデリックがもらい受け、父が手放したあと、わたしたちが買い戻した正当なわが家の財産だ」
「それでもぼくは、クロエに返したいんだ。ぼくに〝卵〟を三百万ドルで売ってください」
「ばかなことを言うんじゃない。金の問題ではないよ。あれは代々相続するものなのだからね。おまえがエミリーと結婚でもすれば、譲渡を考えないでもないが」
「なんですって?」
「エミリーとそういう話になっているのだろう? このあいだのパーティーでも仲よくしていたじゃないか」
ダレルはパーティーの晩のことを思い起こした。得意先との電話を終えて戻ったとき、エミリーにつかまってホームパーティーに招待された。うまくあしらっておいたが、あのとき父はそれを見ていたのか。そして、クロエも?
「まさか、そのことでもクロエに余計なことを言ったんじゃないでしょうね?」
「ああ、似合いのカップルだ、くらいのことは話したかもしれないな」
ダレルはあきれ返った。父とバリモアがなにやらたくらんでいることにはうすうす気づいていたが、まさかクロエにそんなことを言うとは。「ふざけないでください。ぼくはエミリーとは結婚しません。ぼくが結婚したいのは、クロエだ」
父が驚いた顔をした。少し間を置いてから言う。「それは知らなかった。もう結婚を申し込んだのか?」
「ええ。断られましたけどね」
父が考え込むような顔をしてから言った。「すると、おまえたちが結婚すれば……」
「たとえ結婚したとしても、〝卵〟と天使像は渡しませんよ。あれはクロエの手もとにずっと置いておく」
父が首を振った。「イースターエッグはわたしが手放さない。それに、美術館との話は今も進んでいる。天使像がなくても展示はできるさ。展覧会を中止するとなれば、違約金を取られるぞ。どうしてもというなら、おまえが話をつけろ」
ダレルは歯を食いしばった。「わかりました」
必ずどうにかしてみせる。美術館と話をつけ、父を説得してイースターエッグを手に入れ、クロエのもとに返すのだ。それを達成しなければ、彼女を取り戻すチャンスはないだろう。
クロエ、待っていてくれ。
ダレルは今、はっきり悟っていた。ぼくはクロエを愛している。
この世の何よりも。
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