17.止まった時が動き出す

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ニューヨークからひとり戻ったクロエ。

エーゲ海に冬が来て、そしてまた春が巡ってきたとき……。


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 エーゲ海に冬がやってきた。クロエは来年に向けての準備や仕入れに精を出した。リッツァは秋にアテネの叔母の家に戻ってからというもの、見ちがえるように勉強に励むようになり、成績は常に学年でトップクラスだった。

 あれ以来、ダレルからはなんの音沙汰もなかった。

 もう、わたしのことなんて忘れてしまった? そうよね……。

 連絡しないでと言ったのは自分のほうだ。ニューヨークから逃げるように帰ってしまったのは自分のほうだ。

 慣れない土地で、知らない人に取り囲まれ、すっかりおびえてしまった。

 ダレルの説明を聞きさえしなかった。自分の父と比べるようなことを言うなんて、公平ではなかった。ダレルは父とはまったくちがう人なのだから。

 プロポーズの返事さえ、きちんとしていないのに。

 あのとき、ダレルは本気だった?

 一夜の熱い愛撫を思い出し、体の芯がぎゅっと締めつけられた。

 きっと本気だったわ。そしてわたしも……。

 今になってようやく気づいた。わたしはダレルを愛している。心の底から。

 彼のためなら、天使像を差し出したってかまわなかったのに。わたしはなんてばかなんだろう。

 もう一度、わたしのほうから電話をしてみようか。そう考えてから、クロエは首を振った。何を今さら。鼻で笑われてしまうわ。

 きっと今ごろは、あの金髪の女性と……エミリーと……仲むつまじく過ごしているはず。

 そう、わたしとはちがう世界に住む人たち。わたしには、島の静かな生活がいちばん合っているのよ。

 クロエはふっとため息をついて、ナイトガウンの襟を合わせた。寝室の窓から外を眺める。葉の落ちた灰色の木々のほかは何も見えなかった。木枯らしが吹き、窓枠がかたかたと音を立てた。


 三月。

 クロエは丘のてっぺんにある教会へ向かった。石畳の坂道をのぼる。風はまだ少し冷たいけれど、肌に柔らかな陽射しのぬくもりを感じた。

 真っ白な漆喰塗りの教会が見えてきた。海の色にも負けない青い丸屋根。その上に小さく光る十字架。アーチ型の鐘楼につるされた鐘が、午前八時を知らせた。

 母が亡くなって、きょうで丸三年。リッツァは昨晩アテネから帰ったばかりなのでゆっくり寝かせておくことにして、クロエはひと足先に祈りを捧げにきたのだった。

 丘をのぼり切ると、視界がさっと開けた。濃紺の海と黒い岩肌がぐるりと周囲を取り巻いていた。お城のような教会が、春の光を受けてまぶしいほどに輝く。クロエは思わず手のひらをかざして目を細めた。額がうっすらと汗ばんでいた。

 教会で母のために祈ってから、裏の教会墓地に足を向けた。朝早いせいか、墓地には誰もいなかった。広々とした芝生の敷地に、白い石の墓が整然と並ぶ。クロエは母の墓の前に来て、花を供えた。近所の果樹園で分けてもらったアーモンドの枝だ。淡いピンク色の花が愛らしい。

 クロエは芝生に座って母に話しかけた。「もう三年になるのね、ママ。なんだか信じられないわ。わたしもリッツァもとても元気だから、心配しないで」

 そして、バッグから〝永遠の時をいだく天使〟を取り出した。「いつもは持ち歩いたりしないけど、きょうは特別よ。ちゃんと大切に持っているわ。曾お祖母さまの遺言の謎はまだ解けないけれど……。それとも、半分は解けたと言うべきかしら」

 少なくとも、〝半身〟が何を意味するかはわかった。でも、〝止まった時が動き出す〟って?

 いつかその謎が解ける日が来るのかしら? それともわたしがまた、わたしの娘へと謎を引き継ぐの――?

「クロエ」

 はっと振り向くと、そこに立っていたのは――。

「ダレル!」

 クロエは驚きのあまり、しばらく口をぽかんとあけていた。すらりと伸びた手脚、少し乱れたブラウンの髪、穏やかな緑色の瞳。焦げ茶色のジャケットが憎らしいほどよく似合う。まちがいなくダレルだ。「どうして……ここに?」

「きみがひと足先に教会墓地へ行ったと、リッツァに聞いたのさ」

「そういう意味じゃないわ!」クロエはさっと立ち上がって、スカートについた芝を払った。

 ダレルはふっと笑って、何も言わずに手に持っていたアタッシェケースを開いた。そこに入っていたものを目にして、クロエはあっと息をのんだ。

 三十センチはあろうかという大きな楕円形の工芸品が、淡い真珠色に輝いている。表面には金といくつもの宝石で、繊細な細工が施されていた。金色の翼を持つ二頭の白い馬。青い海に浮かぶ帆船が描かれたエンブレム。

「これは……これは……」

「そう、〝卵〟だよ」ダレルがその美しい工芸品をそっとクロエに手渡した。「もうすぐイースターだからね。これは、ぼくからきみへのプレゼントだ」

 クロエは震える両手で〝卵〟を包んだ。「この模様……」

「そう、あのタペストリーと同じだね。デュカキス家の家紋なんだろう?」

「だから……だからあなたにはわかったのね。天使像の隠し場所が」

 ダレルが照れくさそうに頭をかいた。「確かに家紋にはすぐ気づいたけど、その裏にある、って言い切ったのはただのはったりだよ。きみがそっちをちらりと見たから、可能性にかけてみたのさ。まさか当たるとは思わなかった」

「まあ」クロエはあきれると同時に、吹き出してしまった。

「これをデュカキス家に返したいと言ったら、父がなかなか承知しなくてね。説得に時間がかかってすまなかった」

「返す……って……?」

 ダレルがにっこり笑って、芝生の上に置かれたクロエのバッグを手で示した。「まずは本物かどうか確かめないと。天使像、持ってきたんだろう?」

「そ、そうね」クロエはいったん〝卵〟をダレルに渡し、バッグから天使像を出した。ダレルが〝卵〟のふたをそっとあけた。赤いビロードが敷かれた内側は、明らかに天使像と同じ曲線を描いていた。

 クロエはごくりと唾をのんで、〝永遠の時をいだく天使〟を静かに〝卵〟のほうへ持っていった。〝卵〟の内側の中央付近に、細いピンが二本立っている。時計の背面にあいたふたつの穴にそのピンを差し込むと、天使像はぴたりと〝卵〟のなかに収まった。

 ふたりは同時に、ほうっとため息をついた。それはあまりにも美しい眺めだった。長い時を経て、ばらばらになっていた宝物が今ひとつになったのだ。

 ダレルが〝卵〟のふたをそっと閉じて、裏返しにした。そこには小さな蝶ねじとボタンがついていた。きょとんとしているクロエに、ダレルは謎めいた笑みを向けてから、ねじをゆっくり回した。もう一度ふたをあける。

 天使のかかえている時計の秒針が、そっと動き出していた。

「まあ! 時計が動いているわ! こんな仕掛けになっていたなんて」

 ダレルがもうひとつのボタンで時刻を調節し、ふたりはしばらく黙って天使像を眺めた。それから、ダレルが〝卵〟のふたを閉め、それをアタッシェケースに入れた。

「これは、きみのものだ」そう言って、クロエの足もとにケースを置く。「大切にしまっておこうと、誰かに売ろうと、ぼくはかまわない」

 クロエは驚いて、その場に立ちすくんでいた。「そんな……。でもどうして……?」

 ダレルが緑色の煙るようなまなざしをこちらに向け、クロエの手を握った。背中から足の先にまで、ぞくりと震えが走った。

「ぼくがほんとうに欲しいのは、こっちの宝物だよ」ダレルはそう言って、クロエを引き寄せ、しっかりと抱き締めた。「クロエ・デュカキス、きみを愛している。どれほどきみが恋しかったことか。もう二度と離したくない」

 クロエは胸がいっぱいになって、言葉が出てこなかった。だから彼のたくましい背中に両腕を回し、ただしっかりと抱き締め返した。

「あれから一度も連絡しなくてごめんよ。すべてをきちんと片づけてから、きみと会いたかったんだ。プロポーズの返事をもらうのは、それからにしようと決めていた」

 クロエは瞳を涙で潤ませて彼の目を見つめ、震える声できいた。「あのプロポーズは、今も有効なの?」

 ダレルが優しく微笑んで答えた。「もちろんだよ。返事は?」

 涙があふれて、頬にこぼれ落ちた。「イエスよ。ダレル……あなたを愛しているわ」彼の胸に頬をすり寄せると、薄手のジャケットに涙の染みがついた。「意地を張ってごめんなさい。ずっと会いたくてたまらなかった。何度も連絡しようと思ったけど、勇気が出せなかったの」

「もう何も言わなくていいよ、いとしい人。決して離しはしないから」ダレルが熱いまなざしでクロエを見つめてから、唇と唇を重ねた。

〝いつの日か、失われた半身が現れ、止まった時が動き出すとともに、永遠の幸福が約束されるでしょう〟

 曾祖母の遺言。永遠の幸福。

 ついにかなったのね、ママ。

 クロエは確信を込めて、胸のなかでつぶやいた。

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