13.ふたつの別れ
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ダレルとはもう会わないと決めたクロエ。
そこへダレルが訪ねてきて、ニューヨークへ帰ると言う……。
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「おはよう、クロエ」
クロエが店のドアをあけようとしたところに、なにやら大きな水色のビニール袋を抱えたコスタスが、ひょいと顔を出した。
「おはよう、コスタス。ずいぶん早いのね」
「さっき漁から戻ったとこなんだ。あの……夕べはほんとうにごめんなさい。大事な宝物を勝手に持ち出したりして……」コスタスがうつむいて、ビニール袋を差し出した。「これ、お詫びのしるし」
クロエが受け取ると、それはずっしりと重かった。なかには、ピンク色と銀色に光る魚がどっさり入っていた。
「ま、まあ、こんなにたくさん……」
「今朝取れたチプーラだよ。新鮮だから、焼いてレモンを搾るだけで最高さ」
「ええ、わたしも大好きよ。ありがとう」にっこり微笑みかけると、コスタスはほっとしたように表情をゆるめた。それから、またまじめな顔に戻って言った。
「きのうみたいなことは、もう二度としない。約束する。これからは毎日漁に出て、ちゃんと修行しようと思うんだ。夜中にリッツァを連れ回すのもやめるよ」
「わかってくれたならいいのよ。修行がんばってね」
クロエは重いビニール袋を抱えながら、店の奥を見やった。「リッツァはまだ寝てるのよ。起こしてきましょうか?」
コスタスが、なぜかさっと目を伏せて少しのあいだ黙ってから、答えた。「ううん。今はいいよ。お昼ごろ、港に来るように言ってくれないかな? 話したいことがある」
「わかったわ。伝えておくわね」
クロエが奥へ戻ろうとすると、コスタスが声をかけた。
「ねえ、クロエ。ミスター・プレストンのことだけど」
「え?」
「彼、すごくいい人だね」
クロエはどきりとして、口ごもりながら答えた。「え、ええ。そうね」
「ミスター・プレストンは、ぼくの命を助けてくれた。天使像も救ってくれた。だけど、ちっともえらそうにしなかったし、ぼくをどなりつけたりもしなかった。かっこよかったよ」
「ええ、たしかにハンサムな人よね」
「ぼくが言ってるのは、外見じゃなくて中身のことさ」コスタスが人なつっこい笑顔を向け、それ以上は何も言わずに、くるりと背を向けて歩き出した。少し足を引きずっていたが、たいしたことはなさそうだ。
クロエはしばらくぼんやりその後ろ姿を眺めていたが、胸に抱えた魚の袋を思い出して、急いで二階のキッチンへ向かった。
昼の十二時少し前。
リッツァは、誰もいない桟橋のはずれでコスタスを待っていた。
きょうはいつもより雲が多く、少し涼しい。水平線がぼんやりとかすんで、海の色も柔らかだ。
「よう」コスタスがやってきた。日焼けした顔には、いつもの底抜けに明るい笑顔ではなく、どこか大人びた神妙な表情が浮かんでいた。
「足の具合はどう?」リッツァはサンダル履きの素足を見て尋ねた。湿布もすでに外してあったが、特に腫れてはいないようだ。
「もうだいじょうぶだよ。ありがとう」コスタスが桟橋の柵に腰かけたので、リッツァもそのとなりに座った。
「夕べはごめん」
「うん。今朝は魚をたくさんありがとう」
コスタスがうつむいて、引っかき傷だらけの両手をじっと見た。
「リッツァ」
「何?」
コスタスがひとつ大きく息を吐いてから、続けた。「きみもわかってるんだろ。このままではいられないって」
リッツァははっとして、彼の黒い目をのぞき込んだ。「なんのこと?」
「最近のきみは、無理してぼくたちとつき合ってる」
「そんなことないわ!」
「いや、そんなことあるさ」
「今だって、みんなと出かけるのはほんとうに楽しいのよ」
「うん、わかってる。でも、きみはもう、ばか騒ぎにはたいして興味が持てないんだろ? それはぼくたちも同じさ。ぼくたちはもう子どもじゃない。それぞれが、まじめに将来のことを考えなきゃいけない時なのかもな」
「コスタス……」
「おしゃべりリッツァが、最近はすっかり静かになったよね。わかってるんだ。ぼくたちが学校のことをばかにするからだろう? きみは学校と勉強が好きなんだ。そのことは昔から知ってた。きみはすごく頭がよかったから」
リッツァはうつむいた。「わたしのこと、お高くとまってるって思ってる?」
「いや、そんなふうには思わない。ぼくたちには、ひとりひとり役割ってもんがあるんじゃないかな。ぼくとパウルは漁師になる。アリは果物を育てる。モナは花屋になる。そしてきみは、えらい学者だか研究者だかになる」
コスタスがいつものように丸い瞳をくるくると躍らせたので、リッツァは思わずくすっと笑った。「学者になんて、なれっこないでしょ」
「いや、なれるさ」コスタスが真顔に戻って言った。「ぼくたちは、別々の道を行く。残念だけど、そういうことなんだ」
リッツァはしばらく、幼なじみのボーイフレンドに視線を注いでいた。目に涙があふれてきて、見慣れた愛嬌のある顔がゆがんで見えた。
「わたしたち、これからもいい友だちでいられるかしら?」
「もちろんさ」
ふたりはしばらく黙って、重い雲が垂れ込めた海を眺めていた。
昼食時で観光客の波がふと途絶えたとき、店先にダレルが現れた。サングラスをかけ、大きなスーツケースを持っている。
クロエはどきりとして、扉のところまで出ていった。
ダレルがスーツケースを下に置き、サングラスを外して言った。「やあ。夕べはいろいろすまなかった。また余計な口出しをして、きみを怒らせてしまったね」
「い、いいえ。わたしのほうこそ、
「それはよかった」ダレルが優しい笑みを浮かべた。
「あの、もしかして……」クロエはスーツケースを身ぶりで示した。
「そう、急にニューヨークに帰らなくてはならなくなった。得意先から呼び出しがかかってね」
クロエの胸がぎゅっと締めつけられた。自分でも驚くほどショックを受けていた。「それじゃ、これでお別れなのね……」
ダレルが謎めいたまなざしでこちらを見つめた。「きみがそう望むなら、そうなる可能性もある。だが、ぼくはちがう考えを持ってる」
「どういうこと?」
「ニューヨークへ来ないか?」
「えっ!」クロエは目を丸くした。
「もちろん、今すぐにとは言わない。秋になって、店を閉めてからでいい。天使像が収まるイースターエッグを、その目で実際に見てみたくないか? 今のところそれは父の所有物だから、ぼくが勝手に持ち出すわけにはいかない。だからきみに、天使像を持ってニューヨークまで来てほしいんだ。ぼくがアテネまで迎えにくるから、いっしょに飛行機に乗ればいい」
「だめよ。天使像を売る気はないって、はっきり言ったでしょう」クロエはかたくなに答えた。
「売ってくれるかどうかは、また別の問題だよ。離れ離れになっていた宝物がひとつになるところを、ぼくはぜひ見てみたい。きみだって同じ気持ちだろう」
クロエは押し黙った。たしかに見てみたい。それは曾祖母の切なる願いでもあった……。
「もっと重要なのは、それがきみと再会する口実になるということさ」ダレルがささやくような声で言うと、クロエの背筋に熱いものが走った。
「落ち着いたら、向こうから電話する。返事はそのときに」ダレルが手を差し出し、クロエはぼんやりと握り返した。
スーツケースを持ち上げて背を向け、ゆっくりと歩き出す。その背中が曲がり角の向こうに消えるまで、クロエは扉のそばにたたずんでじっと見つめていた。
忙しい一日が終わった。きょうはめずらしく午後から小雨がぱらついて、十時前には客足も途絶えた。
クロエは早めに店を閉めることにした。
「それじゃ、片づけましょうか、リッツァ」
「そうね」
リッツァが黙々とアクセサリーをガラスケースにしまった。昼に一時間ほど出かけて帰ってきたあと、なんだか妙に元気がない。
「リッツァ、これからも、たまには気晴らしに遊びに行ってかまわないのよ。勉強と仕事ばかりじゃ息が詰まってしまうわ」
妹がこちらを振り向いた。大きな目に、みるみる涙があふれた。
「どうしたの?」レジ周りの雑貨を整理していたクロエは、手を止めて尋ねた。
「コスタスがね……」リッツァが指の背で涙をぬぐいながら言った。「コスタスが、ぼくたちは別々の道を行くことにしよう、って」
「えっ……」
「自分は立派な漁師になるから、きみはしっかり勉強して、いい大学を出て、学者だか研究者だかになれって」リッツァが泣き顔のまま、ふふっと笑った。
「それで、あなたはなんて答えたの?」
「わかった、そうする、って」
「それでいいの……?」
リッツァがきっぱりとうなずいた。「いつかはこういう日が来るって、少し前からわかってたの。気づかないふりをしてたけど……。わたしたち、もう子どもだったころとはちがうのよ」
「リッツァ……」
「コスタスの期待を裏切らないように、しっかり勉強しなくちゃね」リッツァがけなげに微笑んでみせた。「そういえば、きょうはダレルは来ないの?」
クロエはうつむいてしばらく黙っていた。
「あなたが出かけてるときに来たのよ。急に仕事でニューヨークへ帰ることになったんですって」
「それじゃ、ママの遺品は売らないのね?」
「もちろん売らないわ。あれはわたしたちの大切な宝物よ」
「ダレルにも、もう会わないの?」リッツァが気遣うように尋ねた。
「わからない」クロエはじっと考えてから答えた。「秋になったら、宝物の片割れを見に、ニューヨークへ来いと言うの」
イースターエッグとダレルの曾祖父の話は、夕べリッツァが戻ってきてから詳しく話してあった。
「それは……行くべきだと思うわ」リッツァがきっぱりと言った。
クロエは驚いてリッツァの顔を見た。
「ダレルはいい人よ。きっと、無理に天使像を売らせたりはしないわ。姉さんは、宝物がひとつになるところをその目で見るべきよ。それに」にっこりと笑って言う。「このままあの人と二度と会わないなんて、よくないと思う。ダレルは姉さんのことをまじめに考えてると言ってたわ。姉さんも、天使像のことは抜きにして、よく考えたほうがいいわよ」
クロエはまじまじとリッツァの顔を見た。子どもだとばかり思っていた妹が、いつの間にこんなに成長したのだろう。
きょう、リッツァとコスタスは大きな決断をした。ふたりとも自分なりの方法で、大人になる道を探っている。
わたしも、一歩を踏み出す時なのかもしれない。
クロエは母のタペストリーをちらりと見た。
その道の先に何があるのかは、まだよくわからなかったけれど。
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