01.エーゲ海のかけら
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ギリシャの小さな島、サフォロス島に、豪華なクルーザーに乗ってとびきりハンサムなアメリカ人の男がやってきた。
彼の目的は……?
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現代 ギリシャ サフォロス島
ダレル・プレストンは大型クルーザーの二階のデッキに立ち、サングラスを外して、しだいに近づいてくる小さな島を眺めた。切り立った茶色い丘の中腹から頂にかけて、おもちゃのような白いしっくい塗りの家々がずらりと並んでいる。ところどころに見える教会の青い丸屋根は、まるで海の色を映したかのようだった。
夕方の六時半だが、まだ日暮れまでにはあと一時間以上ある。傾きかけた夏の陽射しが建物の白さをさらに際立たせ、まぶしいくらいだった。それでも、頬を撫でるそよ風はさらりと心地いい。
ダレルはほっとため息をつき、濃い茶色の髪を片手でかき上げてから、サングラスをかけ直した。ふと視線を下げると、友人たちが下のデッキに集まって夕方のカクテルを楽しんでいた。
「ここにいたのか」
船の持ち主で友人のピーター・ベンサムが上がってきて、声をかけた。「ほんとうにここで降りるのか? クレタ島に寄って、そのあとイスタンブールまで足を延ばすつもりなんだよ。よかったら、もう少しつき合わないか?」
「いや、誘いはありがたいが、もともとここが目的地だったんだ」
「こんな小さな島にいったい何があるんだい? アンティークの掘り出し物?」
「まあ、そんなところさ」ダレルはあいまいに答えた。
「夏休みだっていうのに、仕事熱心なことだ。ま、ぼくも名目上は観光ルートの下見をしてることになってるんだけどね」ピーターが笑った。
ピーターは学生時代からの友人で、大資本家の息子だ。本人はアメリカの大手観光会社の役員に名を連ねているが、じっさいには下見と称して世界中を旅して回る気楽な身分。要するに放蕩息子なのだが、気さくで憎めないところがあり、なぜかダレルとは馬が合った。
ニューヨークでちょうど仕事が一段落したところで、バルセロナにいるピーターから連絡があり、学生時代の仲間たちといっしょに地中海をクルーズしないかと誘われた。ちょうど、ギリシャへは行くつもりだった。その前に少しのんびりするのもいいかもしれない。そこでダレルはバルセロナでピーターたちと合流して、豪華なクルーザーに乗り、二週間かけてマルセイユ、モナコ、ローマを巡って、いよいよエーゲ海に入ったのだった。
「だったら今夜はお別れパーティーだ。島のバーを貸切にして、飲み明かそうじゃないか」ピーターが青い目をくるくると躍らせて、楽しそうに言った。
やれやれ。これは朝まで解放されそうにないぞ。
まあ、ばか騒ぎも今夜までだ。とことんつき合ってやろう。
「よし。まずは下船して、ホテルにチェックインしてくるよ」ダレルはそう言って、荷物をまとめに自分の船室へ戻った。
東の空がしだいに明るくなり、静かな海が青さを増していった。白い小箱のような家々が、淡い朝日の色を映す。
「きょうも暑くなりそう」
クロエ・デュカキスは水の入ったバケツを持って、店の外に出た。朝の空気はさわやかだったが、すでにノースリーブのサマードレス一枚でじゅうぶんなほどの気温になっていた。濃紺の生地に白い花をあしらったシンプルな木綿のドレスは、クロエのすらりとした体によく似合った。
「おはよう、クロエ。もう開店準備かい。ずいぶん早いね」となりの店のゼノが、ドアから顔をのぞかせて声をかけた。
クロエは打ち水の手を止めて答えた。「おはよう、ゼノ。ええ、今が稼ぎ時だもの。しっかり働かなくちゃ」
「あんまり無理するなよ。お母さんが亡くなってから、ずっと働きづめじゃないか。体を壊したら元も子もないぞ」
ゼノは五十代のきさくな男で、妻と小学生の息子がふたりいる。ゼノの店は観光客向けのカジュアルな服を中心とした品ぞろえで、特に水彩画風の島の風景をプリントしたTシャツが大人気だった。
「だいじょうぶ」クロエは少しウエーブがかかった長い黒髪をさっとかき上げて、にっこり笑った。彫りの深いエキゾチックな顔立ちをしているので、冷たい印象を持たれがちだったが、こうして微笑むと、とたんに明るく親しみやすい性格が表れる。「こう見えてもわたしは頑丈なのよ」
「まあ、ほどほどにな。うちはこれから朝ごはんだ。それじゃ、またあとで」
ゼノがドアの奥へ姿を消すと、クロエはバケツを持ちあげてふたたび打ち水をし、それから店内を整え始めた。
ここサフォロス島には、数カ所のビーチと、小さな港から出航するクルーズ船以外に特別な観光施設はないが、濃い青のエーゲ海によく似合うしっくい塗りの建物や教会、石畳の入り組んだ路地が美しく、毎年夏には世界じゅうからおおぜいの観光客がやってくる。八月の今、クロエの小さなみやげ店も大忙しだった。
店の名前は〈エーゲ海のかけら〉。その名のとおり、エーゲ海が生んだ色とりどりの貝殻や石を使ったアクセサリー、海の景色をモチーフにしたタペストリー、海鳥や魚や、いろいろな海の生きものをかたどった小物などを置いている。
クロエはガラスケースの鍵をあけ、小物やアクセサリーを見目よく並べた。
母が亡くなったのは、クロエが二十二歳のときだった。もう二年半近くになる。アメリカ人の父と離婚し、この島へ戻ってからは女手ひとつでこの店を守り、クロエとリッツァを育ててくれた優しく美しい母。母を失って打ちひしがれる間もなく、クロエは生活費と妹の学費を稼ぐために、必死に働いてきた。リッツァも高校生になり、来年の夏にはもう卒業だ。妹を大学へ通わせるためにも、あともうひと踏んばり、がんばらなくては。
店内を整え終えたクロエは、木彫りの小さな壁かけ時計を見た。
まだ七時前。リッツァは眠っている。今のうちに朝市で買い物しておこう。
クロエは店の扉に鍵をかけ、港の市場に向かって歩き出した。
石畳の細い路地を下っていくと、さっと視界が開けて、藍色の海とこぢんまりした港の風景が見えてきた。桟橋には、大小さまざまなボートや漁船やクルーズ船が停泊している。
クロエは海から吹く朝の風に髪をなびかせながら、港の海沿いの道をゆっくり歩いた。大きな弧を描く桟橋のいちばん奥に、ひときわ豪華な大型クルーザーがつながれているのが見えた。スタイリッシュな白い船体が朝日にきらきらと輝いている。こんな立派なクルーザーが、この島に停泊するのはめずらしいことだ。昼間に豪華客船が立ち寄ることはあっても、たいていは数時間の滞在で別のもっと大きな島へ移動してしまう。
どこかの大金持ちが、気まぐれに遊びにきたのかしら。退屈していないといいけれど。
クロエはぼんやりと考えて、市場への道を右に曲がった。
買い物を終えて海沿いの道に戻ってくると、大型クルーザーはまだその場につながれたままだった。
「クロエ、おはよう」桟橋の反対側に並んだオープンカフェの一店から、ポニーテールの店員が声をかけた。
「おはよう、ニキ」
ニキがテーブルを拭いていた手を止めて、大型クルーザーを指さした。「あれ、すごいわよね」
「ほんと。どこのお金持ちかしら?」
「アメリカ人の大富豪らしいわよ。しかも若くてハンサム」
クロエは目を丸くした。「あなたも見かけたの?」
「二十人くらいのアメリカ人が船から降りてくるところをちらっとね。みんな身なりがよくて、裕福そうだったわ。さっき仕事明けのドーラに聞いたんだけど、昨夜〈バッカスの隠れ家〉を貸切にして、シャンパンやら高級ワインやらをたくさんあけたんですって。で、二時くらいにほとんどの人は帰っていったんだけど、とびきりのハンサムがふたり残って、朝の四時まで飲んでたらしいの。その一方が、あの船の持ち主だそうよ」
クロエは笑った。「まあ、ずいぶん華やかね。この小さな島にいつまでいてくれるかわからないけれど、思う存分お小遣いを使っていってくれるといいわね」
「そうね」ニキが大きな口を弓形に曲げて、にんまりした。
クロエが野菜と果物の入った袋を抱えて店に戻ると、時計の針は八時を回っていた。リッツァはまだ寝ているのかしら。
クロエは店の裏口から出て、狭くて急な階段をのぼった。「リッツァ! 夏休みだからって、いつまでも寝ていないで。新鮮なオレンジを買ってきたわよ」
「うーん」返事はくぐもったうなり声だけだった。
リッツァは、ふだんはアテネに住む叔母の家から高校に通っていたが、今は夏休みで島に戻っていた。このところ毎晩、久しぶりに会った地元の友人たちと出歩き、夜遅くなってから帰ってくる。少しくらいなら羽目を外すのもいいけれど、毎晩となると心配だった。リッツァのボーイフレンドのコスタスは漁師の息子で、すでに学校をやめて父親のもとで修行していた。悪い子ではないのだが、昔からじっとしているのが苦手で、興味のあることは試してみずにはいられないらしい。夜中に海に飛び込んだり、バイクを乗り回したりして、問題を起こすこともしばしばだった。リッツァも調子に乗って、危ないことをしていなければいいけど。
「リッツァ!」
クロエは野菜と果物を冷蔵庫にしまいながら、もう一度呼んだ。
「んもう、せっかくの夏休みなんだから、もうちょっと寝てたっていいじゃない」
リッツァが口をとがらせながら、寝室から出てきた。タンクトップとショートパンツという姿で、濃いブロンドに染めたショートヘアはくしゃくしゃに乱れている。
「アドナ叔母さんのうちじゃ、毎朝六時半に起こされてたのよ。叔父さんの仕事も、ドリスの美術専門学校もすごく朝早いんだもの」
「あなたも秋から三年生でしょ。だらだらしてると、あっという間に夏休みも終わりよ。大学のことはちゃんと考えてる? 学費はなんとかするから、ほんとうに行きたいところを選ぶのよ」
「またその話」
リッツァが大きな丸い目をくるりと回してあきれ顔をした。瞳の色はクロエと同じ褐色だが、顔立ちはもっと愛嬌があって、ピンク色の頬とふっくらした唇がかわいらしい。
リッツァはそれ以上何も言わず、そそくさと洗面所へ向かった。
「さて、きょうも一日のスタートね」
丘の上の教会が九時の鐘を鳴らすと同時に、クロエは店をあけた。
十時を過ぎると、店は観光客でにぎわってきた。リッツァもレジ打ちを手伝ってくれている。
「わあ、かわいいピアスね」
「ほんとだわ」
ドイツ人とおぼしきふたり連れの若い女性客が、淡いブルーの貝殻を流線型にかたどったピアスを指さして言った。
「ありがとうございます。当店のオリジナルなんですよ」
「値段も手ごろね。じゃ、これを」
「わたしは、こっちのオレンジ色のにするわ」
女性たちを送り出すとすぐに、今度は四十代くらいの夫婦が入ってきた。
「色鮮やかでとってもきれい」赤いワンピースを着たふっくらした妻が、壁にかかった色とりどりのタペストリーを見て言った。
「お嬢さんのほうがもっときれいだけどね」アロハシャツ姿の夫が、クロエに向かってウインクしながら言った。妻は片方の眉を上げて夫をにらむふりをしたが、何も言わなかった。
クロエはふふっ、と笑ってから答えた。「お値引きもいたしますよ」
「こっちのタペストリーは、とても由緒がありそうね。おいくらぐらいするのかしら?」
妻が、店の奥まったところにひっそりとかけられたタペストリーを指さしてきいた。落ち着いた藍色の生地に、みごとな紋章が織り込まれた母手作りのものだ。王冠をいただくエンブレムの中央には、青い海に浮かぶ帆船が描かれていた。エンブレムの両脇を、金色の翼を持つ二頭の白い馬が支える。その周囲には、真っ赤な百合の花があしらわれていた。
「それは売り物ではないんです。すみません」
そのタペストリーには、秘密があった。というより、タペストリーの裏に隠された扉に。誰も、リッツァですら知らない秘密。
母が亡くなる前、わたしだけに話してくれた
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