02.秘密の扉に隠された天使

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クロエは、二年半前に亡くなった母から、伯爵家に代々伝わる美しい天使像を受け継いだ。

その天使像には不思議な言い伝えが……。


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 クロエとリッツァは、もともとはギリシャの王室と親戚関係にあった伯爵家の子孫だ。

 十九世紀半ば以来、デュカキス家は広大な領地を持ち、富と名声に恵まれた豊かな生活を送っていたという。しかし、一九二〇年代に王室が政権の座を失ったとき、デュカキス家も財産をすべて奪われ、領地から追い出されてしまった。

 当時、クロエの高祖父にあたる伯爵は、すでに亡くなっていた。長女のクリスティアナはほんの十八歳。男きょうだいもおらず、婿養子として夫を迎えたばかりだった。若い夫婦はなすすべもなく、サフォロス島へやってきて、ひっそり暮らし始めたという。

「あなたの曾お祖母さまは、とても美しいかただったそうよ。わたしは肖像画でしか見たことがないけれど」

 クロエが幼いころ、母はよくそう言った。

 クロエは曾祖母どころか、祖母にも会ったことがなかったし、当時はまだ、サフォロス島にもアテネにも行ったことがなかった。そのころは家族四人で、アメリカのカリフォルニア州に住んでいた。リッツァはまだ生まれたばかりで、ベビーベッドですやすやと眠っていた……。

「あなたの目は、曾お祖母さまにそっくりよ。そんなふうに、悲しそうにまつげを伏せていると特にね。さあ、元気を出して」

 クロエが悲しそうにしていたのは、母が悲しそうにしていたから。父のことは、ぼんやりとしか憶えていない。そのころから、ほとんど家には帰ってこなくなっていた。

 父はアメリカの自動車会社の輸出部門で働いていて、出張でアテネを訪れた際にサフォロス島に立ち寄り、母と出会ったそうだ。ふたりは瞬く間に恋に落ちたが、母はギリシャを離れてアメリカへ嫁ぐことを迷った。しかし、絶対に幸せにするから、という父の猛烈なアタックに説き伏せられ、故郷を離れる決意をした。ハンサムで大胆で、自信たっぷりなアメリカ人男性は、若く世間知らずなギリシャ人女性の目にはとても魅力的に映ったのだろう。

 しかし、それまで島で静かな暮らしを送っていた母は、カリフォルニアでの華やかな生活に戸惑った。明るく外向的な父はつき合いも幅広く、出張やらパーティーやらで家を空けることも多かった。子どもが生まれてからもそれは変わらず、英語もあまり得意でない母は、寂しさを募らせていった。母は何も言わなかったが、おそらく父とほかの女性との関係も始まっていたのだろう。

 結局、クロエが九歳、リッツァが二歳のとき、母は父と離婚し、ふたりを連れてサフォロス島へ戻ってきた。クロエが知るかぎり、母は父とは二度と会っていないはずだ。数年後、父は再婚したという簡単な手紙をよこした。〝きみと娘たちの幸せを祈っている〟というひと言を添えて。それ以来、父から手紙が来たことはない。

 こうしてクロエは九歳のとき初めて、ギリシャのサフォロス島にやってきた。母が話してくれたとおり、いや、それ以上に美しい場所だった。海の青さが、カリフォルニアとはまったくちがった。そう、ここがわたしのほんとうの故郷。あれから十五年の月日が流れたけれど、その気持ちは変わっていない。

 クロエが島にやってきたとき、祖父はすでに亡くなっていたが、祖母のシルヴァニアは健在だった。祖父は、デュカキス家と縁が深く同じように土地を追われた貴族の三男で、祖母とは幼なじみだったそうだ。母の妹のアドナを加えて女五人となった一家は、ささやかではあったが、のんびりと楽しく暮らしていた。しかし、その暮らしも長くは続かなかった。

 祖父母は、両親が土地を追われたときにどうにか持ち出した家財道具を少しずつ売って、生活費にしていた。小さな島で貴族が働くなど、彼らの世代には考えもつかないことだったのだろう。しかし、その蓄えには限りがあった。三人も家族が増えたのだから、それも当然だった。そして、切羽詰まった母が、みやげもの屋を営むことを思いついた。

 長年つき合いのあったアテネの古道具屋に事情を話して協力してもらい、アンティークや小物を安く仕入れた。店は観光客のあいだで人気となり、夏には大にぎわいだった。十二年前に祖母が亡くなってから、母はクロエとリッツァを育てながら、朝から晩まで必死に働いた。

 クロエも、まだ小さかったリッツァの面倒を見ながら、一生懸命手伝った。高校を卒業すると、本格的に店の経営に関わるようになり、アンティークの買いつけや、見よう見まねでアクセサリーのデザインも始めた。これでようやく、母も少し楽になるだろう。そう思った矢先のことだった。

 二年半前の冬、春に向けた新しい小物の準備中に、母がいきなり倒れた。イルカをかたどったガラスの置物が、床に落ちて割れた。

 母は心臓を悪くしていたのだ。もうずっと前から、調子が悪かったにちがいない。なのにそんなそぶりは少しも見せず、いつも明るく笑っていた。クロエは、気づかなかった自分に腹が立ってしかたがなかった。

「ごめんなさい。わたしがもっとしっかり働いて、ママを休ませてあげればよかった……」クロエが枕元で涙をあふれさせると、母は優しくこう言った。

「何を言っているの。わたしはあなたといっしょに働くのがほんとうに楽しかったのよ。このお店はわたしの誇りだもの。年寄りじゃあるまいし、引退なんて考えたこともなかったわ」

 母が鼻にしわを寄せて言うので、クロエは涙をこぼしながらも思わず笑ってしまった。

「ねえ、クロエ」ふいに、母がクロエの手を握って言った。

「ドレッサーのいちばん上の引き出しの奥に、鍵が入っているの。取ってくれる?」

 クロエは言われたとおり、引き出しの奥を探り、古めかしい真鍮製の鍵を取った。初めて見た。どこの鍵だろう。

「店の片隅に、わたしが作ったタペストリーがかかっているでしょう。誰にも売らない、って決めてあるあれよ。あの裏に、扉があるの。そこをあけて、中のものをここへ持ってきてちょうだい」

 扉? タペストリーの裏に扉があるなんて、今の今まで知らなかった。クロエは驚きながらも、言われたとおり階段を下りて店に入り、タペストリーをめくった。

 たしかに、壁に二十センチ四方くらいの四角い切れ込みがあり、左側に小さな鍵穴があいていた。クロエは細長い鍵を差し込み、かちりと回した。

 なかに入っていたのは、時計を抱えた小さな天使像だった。なんて繊細な細工だろう。きっと貴重なものにちがいない。クロエはそっと手に取って、二階へ上がった。

 枕元に戻ると、母が言った。「これはね、デュカキス家に代々伝わる宝物で、〝永遠の時をいだく天使〟っていうのよ。美しいでしょう?」

 ほんとうに美しい。クロエはしげしげとそれを眺めた。半透明のエナメルで作られ、細やかな彩色を施された愛らしい天使が、淡いベージュの台座に腰かけ、自分の体よりも大きな時計をいとおしそうに両腕でかかえている。時計は淡い緑色の大理石で、金の細工で豪華に飾られ、文字盤にはダイヤモンドがはめ込まれていた。何気なく時計の背を見ると、二ミリほどの小さな穴がふたつあいていたが、ねじなどはついていなかった。どうやら針の動かない、装飾的な時計らしい。

「デュカキス家では、曾お祖母さまの代から、なぜか女の子しか生まれていないのよ。だから、これは長女が受け継ぐことになっているの。そう、今度はあなたの番ね、クロエ」

「ママ、そんなこと言わないで!」クロエの胸に不安が込み上げた。

「いいから、話を聞いて。この宝物には謎があるのよ。あなたの曾お祖母さまは、お祖母さまにこの天使像を渡すときにこうおっしゃったんですって。〝いつの日か、失われた半身が現れ、止まった時が動き出すとともに、永遠の幸福が約束されるでしょう〟」

 クロエはきょとんとした。「どういう意味?」

「わたしにもわからないわ」母が答えた。「曾お祖母さまはそれだけおっしゃって、亡くなったそうよ。あなたのお祖母さまも、その謎を解けないまま亡くなった。わたしにも、どうやらむずかしいみたいね。だからあなたに任せるわ、クロエ。なんとなく、あなたが解いてくれるような気がするの。曾お祖母さまの遺言の謎を。だって、あなたは曾お祖母さまによく似ているのよ。そう、その少し寂しげな瞳が……」

「ママ……」

「曾お祖母さまもお祖母さまも、どんなに生活が苦しくてもこれだけは手放さなかったのよ。あなたも決して手放さないと約束して」

「約束するわ。絶対に手放したりしない」クロエは母の手を握り締めて誓った。

 母は安心したかのようにふっと息を吐いた。

 それから数日後、母は永遠の眠りについた。

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