4-2
◇◆◇
アイリのいなくなった謁見の間で、先ほどまで彼女を捕えていた玉座の上にのろのろと腰を下ろしたギルハルトは、気が
──おもいで? 思い出、だと?
彼女の中で自分はすでに過去の出来事で、〝ナカッタコト〟に分類されている……?
「要するに……俺はソデにされた、ということなのか……?」
それだけに、アイリ・ベルンシュタインの存在にいかに浮かれていたか、気がついてしまった。すでに手の内に入ったものだと思い込んで、彼女と過ごすこれからの日々を勝手に夢想までしていたのだ。これでは、まるで──。
「俺が、
ほとんど八つ当たりじみて、サイラスをねめつける。
並みの人間であれば、銀狼王のひと睨みで口も
「アイリ
「問題あるか」
「ありません。むしろ
本心だろう、とギルハルトは思う。
ギルハルトの凶暴性に慣れるほどサイラスは常に傍で仕えていた。
「女性に振り回されるあなたを見るのは初めてなものですから、実に
ぶふーっ、とこらえきれない笑いが
この男の無表情にすっかり慣れているギルハルトはといえば。
──首を
本気で思いかけて、不毛だと思い直す。
学生時代からの友人であり、その頃から変人なこの男の言い分は
アイリ・ベルンシュタインという女は、一見、人畜無害で扱いやすそうだというのに、
不可解だ、とギルハルトはこめかみを押さえてぼやいた。
「女というのは、ドレスや宝石を与えれば、浮かれ喜ぶ生き物ではなかったか?」
自分を
ところが、アイリはそれらの
「王妃にしてやると言えば、もろ手を挙げて喜ぶものではなかったのか?」
──地位を与えると喜ぶのは、女に限った話ではないがな……。
すがすがしいほどに、あれは本心だ。
──
まったく、さっぱり、アイリ・ベルンシュタインという女がわからない。
頭を
「世にはいろんな人間がいますよ、ご存じでしょう?」
「女のことは知らん」
「アイリ嬢からすれば、あなただって相当に変わった男でしょうよ」
王に『普通』を求める者がどこにいる、と反論しようとしてやはり不毛だとやめた。
「アイリには……心を寄せる男でもいるのだろうか」
宮廷で弱点など決して見せないよう心がけるギルハルトが、めずらしく弱気を隠せずにいることに、サイラスはおや、とばかりに
「婚約の
「グレル侯による、ベルンシュタイン伯への評価はおおむね正しいですよ」
ベルンシュタイン伯爵家は、先代──アイリの父親が
領主が
「ベルンシュタイン伯は、管理人の背任に気づいてすらいないようです。ろくに
足元をおろそかにしながら、ベルンシュタイン伯爵夫妻は実の娘を王妃に
「妹のクリスティーナは、去年の社交界デビューからこっち、
「陛下、クリスティーナ嬢が社交界デビューをした夜会での謁見すら、覚えておいでじゃないでしょう? 婚約者だというのに、すぐに辞してしまわれて」
王城で行われる貴族令嬢の社交界デビューでは、王に
覚えていないギルハルトは
何しろ、勝手に決められた婚約であったし、一年前と言えば、ギルハルトが
「陛下がすげない上に、顔合わせの茶会すら開こうとなさらないものだから、クリスティーナ嬢は
サイラスは、感心したような口調で続ける。
「なかなかに図太……いえ、失礼。逞しい妹君のようです。クリスティーナ嬢としては、貴族
「……ほう」
「男性からのウケのよさとは反対に、令嬢方からはかなり反感を買っていたようですね。特に、月の聖女が妃に収まるのに反対する貴族の令嬢とは大変険悪だったとか」
その様子はある意味、社交界の名物だったとのことで。
「そんな周囲の反応はどこ吹く風で王妃になる気満々のようでしたが、どうやら王宮に近い者が最近のあなたの横暴を耳に入れたらしいのです」
怖じ気づいて身を隠したというわけか。
「いかがです。アイリ嬢のおすすめ通りに、クリスティーナ嬢ともお会いになってみますか? 私の配下が総力をあげれば、すぐにでも見つかるでしょう」
ギルハルトは、自分の婚姻についての進行を丸投げしていたのを
「
「純粋な親切心です」
噓をつけ、とギルハルトは鼻を鳴らした。
そこかしこに
それをしないのは、つまり、あの身代わり婚約者を気に入っているということだ。
「俺はアイリに好かれたいだけだ」
「好かれるヒントを差し上げたいのはやまやまですがね。アイリ嬢についての報告は、まるで妹の
サイラスは、妹の情報は好みの茶に至るまで調べれば調べただけわかるけれど、アイリ・ベルンシュタインの個人的な情報はほとんどわからないという。
「あとは、使用人の足りていない実家で
サイラスは意味ありげな視線でギルハルトを見つめる。
「……この俺が、犬や子どもと同列に見られていると言いたいのか」
「ご
「……おまえは初めてアレを見たとき、大笑いしやがった」
「さすがに笑うしかありませんよ。仕えるべき主人にふかふかの獣耳が生えていたら」
アイリはギルハルトのオオカミ耳を見ても、笑わなかった。
少なからず好意を持たれていたからこそ、と判断して何が悪い。というか──。
「俺は……、カンチガイ野郎などではない!」
「はい?」
「アイリの作った菓子はうまかった。あんなに菓子がうまいと感じたのは、初めてだったんだぞ!? 俺の体調を
「いえ……ぷふっ、そういう、ことでは、くっ」
「おい、なんで笑いをこらえてやがるんだっ。おまえにも食わせてやればよかったな。あんなにうまかったということは、アイリがこの俺の舌を
「おそれながら、陛下。アイリ嬢は、この後、私や他の者にも菓子を配りたいと」
「は……な、なんだと? アイリの菓子は、俺だけのものではないのかっ!?」
「当たり前でしょう。私どもの集めた情報から考えるに、妹君が貴族同士の茶会に持参していた菓子は、アイリ嬢が作っていたもので間違いなさそうですしね。貴族間では『美味』と評判だったそうで」
けんもほろろの報告に、ギルハルトはぐぬぬ、と歯ぎしりする。
「ならば、ブラッシングはどうだ!? あれは特別だったはずだ。アイリはな、俺の
「ブラッシングは、飼い犬への日課だったようです」
「日課? ……犬っころが、毎日アレをされていたというのか!?」
「はい。ちなみに、犬種はコーギー。所領の牧場で生まれたばかりの牧羊犬の
無表情メガネは、いちいちどうでもいい情報とともに冷や水をぶっかけてくる。
「……じゃあ、なんだ? アイリにとって俺は、妹に押し付けられた婚約者で、弟に押し付けられた犬と同等で……アイリにとって、その程度の男だと言いたいのか……?」
「ですから、申し上げていませんよ。なんなんです、今日のあなたは、あなたらしくもなく
されてもいい、と思ってしまったなんて死んでも明かさない。一生おもしろネタにしておちょくられるのが目に見えている。
犬はともかくとして、彼女の行いを思い返すほどに実感が
──つくづく、
まず、身代わりとして王宮に上がっておいて、アイリはつまらない噓をつかないのだ。
そして卑屈なほどに
何より、ギルハルトは普通の人間ではない。そんな男の妃になる女に一番求めたいものは、ここぞというときの
控えめな態度に見えて、その実、アイリの
満月の夜には
ギルハルトは、今はオオカミ耳の生えていない頭に触れた。
「『かわいい』、なぁ……」
彼女は、よすぎるほどに面倒見がいいとのことだ。自分が特別扱いされていたわけではないと認めるのは業腹だが、実際にその通りなのだろう。
アイリがギルハルトから逃げなかったのは、主従の忠義でもなければ、益のためでもなく、
──つまりは俺ではない、別の男に愛を
その光景を想像してみれば、
──俺のためだけに、菓子を作ればいい。
──俺のためだけに、あの愛情深い手が触れればいい。
だからこそ、別の男に
『女なんてどれも同じだ』と
「俺は、生まれて初めて、人生の選択肢を与えられているのだ」
ところがアイリのほうは、ギルハルトを選択肢にすら入れていない。
「どうにかして、アイリ自身の意志で俺を選ばせたいところだが……さて難問だな」
これまでギルハルトは自動的に相手から望まれてきたし、欲しいものがあれば手に入った。王権で
ところが、アイリ・ベルンシュタインという女はそれが通用しない相手だと、この数日で理解した。何しろ、『奇妙な女』である。
めずらしくぐずぐずと
「陛下。アイリ嬢を知りたければ、回りくどく我々の
目からうろこが落ちるとはこのことである。なんでそんな簡単な方法に思い至らなかったか? これまで女について特別に知りたいとも、興味が
それなのに、アイリにはどうあっても好かれたい。ギルハルトに対して何ひとつ求めようとしない、あの女をそばに留める方法は? それが知りたくてたまらない。
そう考えると居てもたってもいられず、ギルハルトは玉座から立ち上がる。
サイラスに命じた。
「ただちに次の『儀式』を実行する!」
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