3-2



 日が変わって、アイリは王宮内のちゅうぼうに立っていた。

 七つある儀式の四つ目、手料理を王にふるまうためだ。

 アイリの補佐のためにと見守る宮廷料理人たちから、『手をお貸しいたしましょう』という声かけが、どういうわけかやけに多い。

「恐れ入ります。では、オーブンの温度調整だけ、お願いできますか?」

 彼らの聖域にみ入ることに恐縮しながらお願いすれば、不可解そうな視線がこうのそれに代わる。その理由をアイリが知るのは、後の話である。

 ──さて、何を作ろうかな。

 ティータイムにふるまうのだから、作るのは茶に合う菓子で問題ないはずだ。

 これまでにアイリは、菓子作りも茶のれ方も『完璧な令嬢クリスティーナ』の代わりとしてずいぶん練習してきたし、実際に貴族同士の茶会で何度もふるまってきた。なんとかなるはずだ、とさっそく用意された材料をつくろおうとして、その豊富さにかんたんする。

 最高級のバターに、高価なお砂糖が使い放題! これだけでも感動的なのに……りんごくでしか採れないというルプスでは貴重な木の実の数々が並び、書物のさしでしかお目にかかったことのない南国産とおぼしき干果からはいい香りがしている。

 貧しい予算から、なんとか材料費をねんしゅつしてきたこれまでの苦労から考えれば夢のよう……。わくわくしながらながめていたアイリは、ハッとした。

 ──そういえば、昨日の『ブラッシング』の時、陛下にどんなお菓子がお好みか聞くのを忘れてた!

 ギルハルトの色気に翻弄され、失念していたのだ。一瞬あせりかけ、しかし思い直した。

 ──今回、私が作るお菓子は、陛下のお好みに合わないほうがいいんだよね……。

 しょせん、身代わりである。

 王のこうりゃくほうを見つけ出し、妹の成功の踏み台になることこそが役目。ぎりぎり失格にならない程度の出来の菓子を出して、後から来る妹を引き立てるのが正解のはずだ。

 わざと小麦粉をるわずダマだらけにするとか、焼く前のを必要以上に混ぜてふんわりさせず、べとっとした仕上がりにするだとか──わざとおいしくない菓子を作る行程を想像しただけで、気持ちが暗くなりそうだ。

 のろのろと視線を材料にもどそうとしたアイリののうに、ギルハルトの顔がよみがえる。

 疲れた顔にみを浮かべた彼は、多忙の中でアイリのために時間を捻出してくれた。

 王都の情報に通じる者が、常に王の傍にひかえているのだ。身代わりがけんするのは時間の問題で、ギルハルトに会える機会は、あとほんの数回しかなくて──。

 ──ただでさえ噓をついているのに……わざと失敗したお菓子をお出しするなんて、絶対にしたくない。

 いくら役目であってもだ。

 意を決して顔を上げると、真っ赤にれたリンゴが視界に飛び込んできたのだった。



 オーブンから甘くこうばしいにおいがただよってくる。アイリは出来上がった菓子を皿に盛り付けると、儀式を記した巻物を手に内容を確認した。

「えっと、『月の聖女婚約者候補は手ずから料理を作り、それを互いに食べさせ合う』」

 じっと手を見る。

 先日、ブドウといっしょにギルハルトの唇にあまみされた指に熱を覚えて、途端に顔までカッと熱くなった、その時である。

「レディ・クリスティーナ? 準備は整いましたか?」

「は、はい!!」

 サイラスに声をかけられ、慌ててぼんを手にするアイリは──。

 ──このお菓子……陛下のお口に合うといいな……。

 わざと失敗しようと企みかけた上に、つねごろから宮廷の最上級のごちそうを食べている貴人に対して、そんなそんを考えてしまうなんて。

『アイリ・ベルンシュタインは、どんな人間か?』

 なんともごうよくな自分を新発見し、まどうアイリなのだった。



 紅茶と焼きたての菓子を載せた盆を手に、アイリは王の執務室へ入った。

 執務の真っ最中だったらしいギルハルトは、手元の書類に視線を落とし難しい顔をしていたが、アイリの姿を認めると、相好をくずしてかんげいを示す。

「待っていたぞ!」

 書類もほっぽり出して、さっさと執務机をはなれ、応接用のソファにこしを下ろす。

 どうやら本当に待ちわびてくれていたらしい。ギルハルトはやはり疲れた顔をしているものの、アイリの目には、彼のおしりに嬉しそうにれる狼のしっげんえいが見えるようだった。

あまっぱい匂いがするぞ。それはなんだ?」

「はい。これは、アプフェルクーヘン。リンゴを使った焼き菓子です」

 たっぷりのバターをぜいたくに使った生地の上に、うすくスライスしたリンゴをめてこんがりと焼いたお菓子だ。

「手の込んだものではありませんし、色々と用意してくださった材料にはめずらしい素材もあったんですが、おいしそうなリンゴがあったので」

「? まさか……この菓子は、おまえが作ったとでもいうのか?」

「え? は、はい、その通りですが」

 うなずきながらも、アイリは内心であせをかく。

 ──どうしよう、私、何かちがえたのかしら?

 巻紙には、『月の聖女候補が手ずから作ったもの』と明記されていた。ギルハルトも承知しているはずなのに。

 戸惑いながらも食べやすいようにカットしてきゅうをすれば、ギルハルトは興味深そうに菓子の載る皿をかかげ、ためつすがめつする。やがて、自らの口元を指さした。

 食べさせろ、と。

 アイリがフォークを手にすれば、それをギルハルトは手ぶりで止める。

「おまえの手で食べさせろと言っているのだ」

「手づかみですか? それは、お行儀が悪いのでは」

「何を言う。これは、神聖な儀式であるぞ」

 わざとらしく真面目ぶった物言いに、きんちょうも忘れて笑いをらしてしまいそうになりながら、アイリは命じられた通り、指でつまんだ焼き菓子を彼の口元に持っていった。

 指をまためられるのでは、と、ぱっと手を離したアイリのけいかいぶりを見て、ギルハルトもまた、笑いをこらえるような顔をしながらしゃくする。

「うん。うまいな、これは」

「本当ですか?」

 ギルハルトはほほえんでうなずいた。

「ああ。甘酸っぱいリンゴがしっとりした生地とよく合っている。香ばしい焼き加減もぜつみょうだ。リンゴの香りの良さが、この茶ともよく合っているしな」

 彼の笑顔がもう一度見られたら、きっとすばらしい気分だろうとは思ったけれど、予想以上だった。アイリの胸は温かく、これまでに覚えたことのない喜びに満ちている。

 これまでにも茶会に持参した菓子をめられることはあったが、それらは妹に向けての賞賛だった。それでも、そのおかげで、いっちょういっせきでできない菓子作りが上達して、ギルハルトの笑顔が見られたと思えば、妹に感謝の念すらいてくる。

 妹が戻ってきたら、急いで作り方を伝授してやらねばならない。

 これまでは『仲良しまい』と言うていで、貴族同士の社交に付き合わされていたが、さすがに王宮への輿こしれにまではついて来てやれないのだから。

「この茶も、おまえが淹れたのか?」

「はい。茶葉は、お茶担当の方にお願いして分けていただきました。サッパリした高産地の茶葉とコクがある低産地の茶葉をブレンドして、焼いたリンゴの甘酸っぱさに合うようにしてみたんです」

 湯気の立つ紅茶のカップをのぞき込み、ギルハルトは感嘆する。

「そんなふうがあるとは……これまで茶は、ねむが覚めればいいとだけ思って用意させていたんだが」

「もしかして、陛下が先日飲んでいらした、苦そうな匂いのしたお茶も?」

「ああ。あれは命じて、めいっぱいく淹れさせたんだ」

 それは、茶の担当官にはくつじょくのオーダーだったに違いない。

「茶がうまいと思ったのは、半年ぶりだ。この半年は、ティータイムを楽しむようなゆとりもなかったからな」

 とにかく人狼の血に目覚めてからはみんなやまされたというギルハルトは、執務中も頭がぼうっとするわ、イライラするわで苦しめられたとじゅっかいする。

けんのほうは冴えて、戦う力は二倍くらいになっていたように思うんだがな。しょうあらくなっていた自覚がある。乱世であればともかく、平和をする国家の王としては使い物にならん」

 笑顔だったギルハルトは、一瞬、難しい顔をするが、すぐに元の表情に戻して言った。

「ああ、すまない。せっかくのおまえといられる時間にしんくさい話をしてしまった」

「いいえ。あの、陛下。お忙しいでしょうが、どうか、ご無理をなさらないでくださいね。今日は、少しでも元気になっていただきたくて、いつも作っているものよりもたくさんリンゴを入れてみました」

「リンゴを? どういうことだ」

「ものの本に、リンゴはろう回復にいいと書いていたんです。ですから……」

 これは儀式だ。今、必要なのは菓子を食べさせ合うということだ。差し出口だっただろうか、と、おじづくアイリに対し、なぜかギルハルトは、きょとんとまばたきする。

「疲労、回復……?」

「はい。陛下、お疲れがたまってらっしゃるようだったので。リンゴに含まれる酸が、体の調子を整えるんだそうですよ」

 まだ不思議そうにまばたきながら、焼き菓子を見つめて、ギルハルトは言った。

「……俺は、そんなに疲れた顔をしているだろうか」

「失礼ながら」

 自覚がなかったのだろうか? えんりょがちにうなずくと、彼は独り言のように自省する。

「臣下を委縮させるのをなんとかしなければ、とばかり考えていたが……そうか……」

 やけにしんけんな目をして、ギルハルトは皿の上の焼き菓子を見つめた。

「それにしても、茶の時間に栄養学の話を聞くとは思わなかったぞ。茶の工夫といい、おまえにはいちいち驚かされる」

「そ、そんなおおげさな」

「何を言う。これはたいしたことだぞ。美しさや味を誇るこうひんは山ほど見てきたが──菓子で栄養を取るなど、見たことも聞いたこともない。考えもおよばなかったから、驚いたと言っているのだ。誰かに習いでもしたのか」

「せっかくお褒めいただいたんですが、社交界でこんの方にゆずっていただいた本で読んだだけで、教わったわけではないんです」

 正確なけいは、妹が供した菓子をいたく気に入った貴族夫人から『お菓子作りの参考になれば』とさまざまな国の菓子の素材や、最新の栄養学の書物が何冊かおくられた。妹が表紙すら開かず放り出したそれらを時間を捻出しては読んでいたのだ。

 家の仕事に追われる日々の中、外の世界を知ることができるささやかながらも楽しい時間だった。

「本当に疲れがとれるようだ……独学でこれだけやってのけるとは、俺の妃はかしこい上に、勉強熱心なのだな。ん? なんだ、その顔は」

「あの、いえ……」

 そんなふうに誰かに言われたことがないので驚いてしまって、という言葉をアイリは飲み込んだ。また余計なことを言って、身代わりを疑われるわけにはいかない。

 アイリは照れに熱くなった顔を隠すようにうつむいた。

『俺の妃』はともかくとして、面と向かって『勉強熱心』などと褒められたことはおくの限り一度もなかった。使用人の足りていない家の仕事のあなめをアイリが必死にこなすのを、使用人たちから同情されこそすれ、どんなに菓子や食事に工夫をしてみても、義理の家族は当たり前の顔をしていた。アイリ自身、そんなものだと思ってきた。

 だからギルハルトが喜んでくれるのは嬉しいけれど、どう受け取ればいいかわからない。

 ただ、ひとつだけハッキリしているのは、わざと菓子作りに失敗しなくてよかった、ということだ。

 嬉しくてゆるみそうになる頰をめていると、ギルハルトがなおも感心したようにつぶやく。

「何もかもしんせんだ。そもそも焼きたての菓子など生まれてこの方食べたことがない」

 しっとりした生地のこのお菓子は、冷めてもおいしいが、焼きたてだとリンゴのとろっとした部分がより甘くて格別だ。

「普段、俺の口に入るものはなんであれ、出てくるまでに手順を踏まねばならないんだよ。手順の中には毒見も入っているからな」

「毒、ですか?」

「ああ。人狼はがんじょうだからな。少々やいばされたくらいでは死なないんだよ。だから、かつて王族と敵対するものどもは、毒を使った。建国したばかりのまだまだ情勢が不安定なころは毒殺を常に警戒していたという。そのなごりだろう」

「もしかして、儀式の『互いに食べさせる』っていうのは──」

「サイラスの調べによれば、この儀式は、月の聖女が自ら食物を調理し供する、いわば信頼を築くためのもの、とのことだ」

 この国では、かつて王族の暗殺を目論もくろむものは毒を使い、そのえいきょうで貴族同士のいさかいでも毒物が持ち出されたという。そんな事情から、昔の貴族は互いに料理を作って供し合うのが互いの信頼関係を結ぶ作法だったという。

 ルプス国の貴族女性の間で、菓子を作って茶をふるまうというたしなみは、そのなごりなのか……アイリはなっとくしながらも、不思議に思って首をかしげた。

「おそれながら、この儀式の目的が、『毒は入っていない』と信頼を示すものでしたら、私がお菓子を先に食べてみせなければ意味がなかったのでは……?」

「その必要はない。なんのためにベルンシュタイン伯爵家をゆいしょ正しいものとして脈々残し、身元をはっきりさせていると思っている」

 銀狼陛下はアイリに対して、『おまえを信頼してる』と言っているのだ。

 この数日、噓をつき信頼をこわし続けているアイリが、再び罪悪感に痛む胸を押さえていると、とつぜん、腰を引き寄せられた。

 そのまま、ソファに座るギルハルトの膝に座らされる。

「ひあぁっ!?」

「こら、そんな声を出すんじゃない。どうにかしてやりたくなるだろう」

「どうにか? ど、どうされるんですか……?」

「教えてやりたいのはやまやまだが、まだ明るすぎるな」

 残念、とばかりにかたをすくめて王は言った。

「なごり、という意味では、月の聖女を妃にというのと変わらん。まあ、そのつまらん慣習のおかげでおまえと出会えた。しきたりも悪いばかりじゃないということだ」

 間近にあるその笑顔に、アイリはやっぱり罪悪感とは違う胸の苦しさを覚えてしまう。大きく鳴る胸のどうが止まらない。

「さあ、俺の妃が俺のために作った特別な菓子だ。もっと食わせてくれ。おまえに見とれてばかりいると、先日の正餐みたいにまた食いそこねてしまいそうだ」

 アイリの菓子を手ずから食べる王は、まるで満たされたわんこのようだった。


 不敬にもそんなことを考えるアイリだが、その様子があまりにも幸福そうで、今はないはずのオオカミ耳と、見たこともない尻尾がげんよく振られているのが見えるようで、可笑おかしくなってくる。

 緊張していた自分が少し馬鹿馬鹿しくすらなってきて、思わずぷっ、と吹き出せば、おまえも食え、と口に菓子を無理やり入れられた。

 ほおばったそれは、いつもよりも甘く感じて。

 ──ちょっとお砂糖が多かったのかな?

 いつも通りに作ったはずなのに。

 ギルハルトと菓子を食べさせ合いながら、ちょっと困った顔をしてアイリは言った。

「国王陛下のティータイムが、こんなお行儀が悪くっていいんでしょうか」

「伝統ある『儀式』だっていうんだから、仕方ないだろ」

 二人は秘密を分け合うように、額を寄せ合いくすくす笑い合う。

「そうですね。仕方ないですよね」

 こんなにも誰かに心を開いて笑ったのは、アイリにとっては物心ついてから初めての経験だ。それが王様相手だなんて、変なの、とますますおかしくなってくる。

 すずやかなこうさいれいなまなざし。整ったりょうで一見冷たそうに見えるこの王は、しかし笑うとどこか無防備でアイリの心を温める。

 ああ、この笑顔が好きだな、と素直に感じるアイリは気づいてしまう。やさしくて、たよりがいがあって、たまにかわいくて──この王が、すっかり好きになっている自分に。

 暴君のうわさおびえていた妹も、彼が大好きになるだろう。安心して輿入れできるはず。妹が戻ってくることは、すなわち、アイリの身代わりの噓がていするということで。

 ──陛下は、噓をついていた私をどう思われるんだろう……。

 けいべつする? 怒って、呆れる?

 どう思ったとしても、この笑顔がこおり付くに違いない──想像するだけで、アイリのむねの奥底が冷たい痛みとさびしさを覚えた、その時である。

「失礼します」

 ノックと共に、執務室のとびらの向こうのじゅうが、扉の傍に控えていたサイラスに対して何かを耳打ちした。人の目が急に恥ずかしくなってきたアイリが、ギルハルトの膝から下りようとするも、彼は腰に回した腕を緩めず、逃がしてくれない。

 ひそかなこうぼうを二人がひろげていると、サイラスが近づいてきた。

「お楽しみのところ失礼します、陛下。グレルこうしゃくがいらしてえっけんを願い出ておられます」

「追い返せ。神聖な儀式の最中だ」

 逡巡なく命じるギルハルトに対して身を乗り出したサイラスは、ギルハルトにだけ聞こえる声で耳打ちした。これまでご機嫌だった王のまなざしが鋭くとがる。

 アイリを膝から下ろすと「ここにいろ」と言い置いて、早足で執務室を出て行った。

 グレル侯爵、とサイラスは言った。月の聖女をおうえるのを断固反対しているという、王宮に来た初日に顔を合わせたあのじゃくのようにかざった貴族のことだ。

「レディ・クリスティーナ」

 嫌な予感にとらわれ、アイリはサイラスが妹の名を呼ぶのにも気づかなかった。

「クリスティーナ様。クリスティーナ・ベルンシュタイン様」

「え……ああ、はいっ!?」

「どうなさいました、レディ。顔色がお悪いようですが」

「い、いえ、儀式が中断したので、驚いてしまって」

 苦しい言い訳をする。

 サイラスは王の去っていった方向を見つめ、しばし考えるような間の後に言った。

「今、陛下が謁見に向かった、グレルこうをご存じですか?」

「はい。叔……ではなくて、父から聞いています」

「あなた様は陛下の婚約者として──正確には候補ですが、まあ、細かいことは置いておいて、当事者として把握していたほうがいいかもしれませんね。グレル侯は、ベルンシュタイン伯爵家から王妃をはいしゅつする慣習を、よく思っておられない。ちょくせつに申し上げると、つぶしたがっておられます」

 淡々と、しかし、サイラスの言葉にはけんがにじんでいる。この近侍長はどうやらグレル侯爵の働きかけを歓迎していないようだった。

「そしてグレル侯のように、銀狼陛下と自分のむすめとをけっこんさせたがっている貴族は多いのです。王は若く権力ばんが固まり切っていない。権勢を得て、国のちゅうすうじんるのであれば、この機を置いて他にありません」

 直截にもほどがあるだろう。アイリがひるんでいると、サイラスはくるりときびすかえした。数歩進んだところで、振り返る。

「レディ、こちらへ。できるだけお静かに願います」

「え? ど、どこへ──」

「お早く」

 かされるまま早足で、音もなく歩く近侍長の後ろを足音を立てないようについていく。

 連れられた先は、よう不明の小部屋だった。数きゃくの他、家具など見当たらず、がらんとしている。物置部屋ではないらしい。

 口元に人差し指を立てるサイラスが手招いた先、部屋の奥には小さな四角い窓のようなものがある。それをサイラスがそっと開くと、かべの向こう側の様子が見える。

 見覚えのある、あの場所は──謁見の間だ。玉座にく王の姿が見えて、その向かいには、ごてごてと着飾ったグレル侯爵の姿がある。

 どうやら、この部屋は謁見の間につながる隠し部屋で、窓は覗き窓のようだ。

 おおげさな身ぶりをして、グレル侯爵が何やら王に対してうったえている。

「おお、我が陛下! あなた様は、ベルンシュタイン伯にだまされておいでなのです!」

 アイリはぎくりとして息をのんだ。

「あのれつな男が陛下の元へ連れてきた娘は、あなた様の正式な婚約者ではございません。あれは真っ赤なニセモノですぞ!」


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