3-2
日が変わって、アイリは王宮内の
七つある儀式の四つ目、手料理を王にふるまうためだ。
アイリの補佐のためにと見守る宮廷料理人たちから、『手をお貸しいたしましょう』という声かけが、どういうわけかやけに多い。
「恐れ入ります。では、オーブンの温度調整だけ、お願いできますか?」
彼らの聖域に
──さて、何を作ろうかな。
ティータイムにふるまうのだから、作るのは茶に合う菓子で問題ないはずだ。
これまでにアイリは、菓子作りも茶の
最高級のバターに、高価なお砂糖が使い放題! これだけでも感動的なのに……
貧しい予算から、なんとか材料費を
──そういえば、昨日の『ブラッシング』の時、陛下にどんなお菓子がお好みか聞くのを忘れてた!
ギルハルトの色気に翻弄され、失念していたのだ。一瞬
──今回、私が作るお菓子は、陛下のお好みに合わないほうがいいんだよね……。
しょせん、身代わりである。
王の
わざと小麦粉を
のろのろと視線を材料に
疲れた顔に
王都の情報に通じる者が、常に王の傍に
──ただでさえ噓をついているのに……わざと失敗したお菓子をお出しするなんて、絶対にしたくない。
いくら役目であってもだ。
意を決して顔を上げると、真っ赤に
オーブンから甘く
「えっと、『
じっと手を見る。
先日、ブドウと
「レディ・クリスティーナ? 準備は整いましたか?」
「は、はい!!」
サイラスに声をかけられ、慌てて
──このお菓子……陛下のお口に合うといいな……。
わざと失敗しようと企みかけた上に、
『アイリ・ベルンシュタインは、どんな人間か?』
なんとも
紅茶と焼きたての菓子を載せた盆を手に、アイリは王の執務室へ入った。
執務の真っ最中だったらしいギルハルトは、手元の書類に視線を落とし難しい顔をしていたが、アイリの姿を認めると、相好を
「待っていたぞ!」
書類もほっぽり出して、さっさと執務机を
どうやら本当に待ちわびてくれていたらしい。ギルハルトはやはり疲れた顔をしているものの、アイリの目には、彼のおしりに嬉しそうに
「
「はい。これは、アプフェルクーヘン。リンゴを使った焼き菓子です」
たっぷりのバターを
「手の込んだものではありませんし、色々と用意してくださった材料にはめずらしい素材もあったんですが、おいしそうなリンゴがあったので」
「? まさか……この菓子は、おまえが作ったとでもいうのか?」
「え? は、はい、その通りですが」
うなずきながらも、アイリは内心で
──どうしよう、私、何か
巻紙には、『月の聖女候補が手ずから作ったもの』と明記されていた。ギルハルトも承知しているはずなのに。
戸惑いながらも食べやすいようにカットして
食べさせろ、と。
アイリがフォークを手にすれば、それをギルハルトは手ぶりで止める。
「おまえの手で食べさせろと言っているのだ」
「手づかみですか? それは、お行儀が悪いのでは」
「何を言う。これは、神聖な儀式であるぞ」
わざとらしく真面目ぶった物言いに、
指をまた
「うん。うまいな、これは」
「本当ですか?」
ギルハルトはほほえんでうなずいた。
「ああ。甘酸っぱいリンゴがしっとりした生地とよく合っている。香ばしい焼き加減も
彼の笑顔がもう一度見られたら、きっとすばらしい気分だろうとは思ったけれど、予想以上だった。アイリの胸は温かく、これまでに覚えたことのない喜びに満ちている。
これまでにも茶会に持参した菓子を
妹が戻ってきたら、急いで作り方を伝授してやらねばならない。
これまでは『仲良し
「この茶も、おまえが淹れたのか?」
「はい。茶葉は、お茶担当の方にお願いして分けていただきました。サッパリした高産地の茶葉とコクがある低産地の茶葉をブレンドして、焼いたリンゴの甘酸っぱさに合うようにしてみたんです」
湯気の立つ紅茶のカップを
「そんな
「もしかして、陛下が先日飲んでいらした、苦そうな匂いのしたお茶も?」
「ああ。あれは命じて、めいっぱい
それは、茶の担当官には
「茶がうまいと思ったのは、半年ぶりだ。この半年は、ティータイムを楽しむようなゆとりもなかったからな」
とにかく人狼の血に目覚めてからは
「
笑顔だったギルハルトは、一瞬、難しい顔をするが、すぐに元の表情に戻して言った。
「ああ、すまない。せっかくのおまえといられる時間に
「いいえ。あの、陛下。お忙しいでしょうが、どうか、ご無理をなさらないでくださいね。今日は、少しでも元気になっていただきたくて、いつも作っているものよりもたくさんリンゴを入れてみました」
「リンゴを? どういうことだ」
「ものの本に、リンゴは
これは儀式だ。今、必要なのは菓子を食べさせ合うということだ。差し出口だっただろうか、と、
「疲労、回復……?」
「はい。陛下、お疲れがたまってらっしゃるようだったので。リンゴに含まれる酸が、体の調子を整えるんだそうですよ」
まだ不思議そうにまばたきながら、焼き菓子を見つめて、ギルハルトは言った。
「……俺は、そんなに疲れた顔をしているだろうか」
「失礼ながら」
自覚がなかったのだろうか?
「臣下を委縮させるのをなんとかしなければ、とばかり考えていたが……そうか……」
やけに
「それにしても、茶の時間に栄養学の話を聞くとは思わなかったぞ。茶の工夫といい、おまえにはいちいち驚かされる」
「そ、そんなおおげさな」
「何を言う。これはたいしたことだぞ。美しさや味を誇る
「せっかくお褒めいただいたんですが、社交界で
正確な
家の仕事に追われる日々の中、外の世界を知ることができるささやかながらも楽しい時間だった。
「本当に疲れがとれるようだ……独学でこれだけやってのけるとは、俺の妃は
「あの、いえ……」
そんなふうに誰かに言われたことがないので驚いてしまって、という言葉をアイリは飲み込んだ。また余計なことを言って、身代わりを疑われるわけにはいかない。
アイリは照れに熱くなった顔を隠すように
『俺の妃』はともかくとして、面と向かって『勉強熱心』などと褒められたことは
だからギルハルトが喜んでくれるのは嬉しいけれど、どう受け取ればいいかわからない。
ただ、ひとつだけハッキリしているのは、わざと菓子作りに失敗しなくてよかった、ということだ。
嬉しくて
「何もかも
しっとりした生地のこのお菓子は、冷めてもおいしいが、焼きたてだとリンゴのとろっとした部分がより甘くて格別だ。
「普段、俺の口に入るものはなんであれ、出てくるまでに手順を踏まねばならないんだよ。手順の中には毒見も入っているからな」
「毒、ですか?」
「ああ。人狼は
「もしかして、儀式の『互いに食べさせる』っていうのは──」
「サイラスの調べによれば、この儀式は、月の聖女が自ら食物を調理し供する、いわば信頼を築くためのもの、とのことだ」
この国では、かつて王族の暗殺を
ルプス国の貴族女性の間で、菓子を作って茶をふるまうというたしなみは、そのなごりなのか……アイリは
「おそれながら、この儀式の目的が、『毒は入っていない』と信頼を示すものでしたら、私がお菓子を先に食べてみせなければ意味がなかったのでは……?」
「その必要はない。なんのためにベルンシュタイン伯爵家を
銀狼陛下はアイリに対して、『おまえを信頼してる』と言っているのだ。
この数日、噓をつき信頼を
そのまま、ソファに座るギルハルトの膝に座らされる。
「ひあぁっ!?」
「こら、そんな声を出すんじゃない。どうにかしてやりたくなるだろう」
「どうにか? ど、どうされるんですか……?」
「教えてやりたいのはやまやまだが、まだ明るすぎるな」
残念、とばかりに
「なごり、という意味では、月の聖女を妃にというのと変わらん。まあ、そのつまらん慣習のおかげでおまえと出会えた。しきたりも悪いばかりじゃないということだ」
間近にあるその笑顔に、アイリはやっぱり罪悪感とは違う胸の苦しさを覚えてしまう。大きく鳴る胸の
「さあ、俺の妃が俺のために作った特別な菓子だ。もっと食わせてくれ。おまえに見とれてばかりいると、先日の正餐みたいにまた食い
アイリの菓子を手ずから食べる王は、まるで満たされたわんこのようだった。
不敬にもそんなことを考えるアイリだが、その様子があまりにも幸福そうで、今はないはずのオオカミ耳と、見たこともない尻尾が
緊張していた自分が少し馬鹿馬鹿しくすらなってきて、思わずぷっ、と吹き出せば、おまえも食え、と口に菓子を無理やり入れられた。
ほおばったそれは、いつもよりも甘く感じて。
──ちょっとお砂糖が多かったのかな?
いつも通りに作ったはずなのに。
ギルハルトと菓子を食べさせ合いながら、ちょっと困った顔をしてアイリは言った。
「国王陛下のティータイムが、こんなお行儀が悪くっていいんでしょうか」
「伝統ある『儀式』だっていうんだから、仕方ないだろ」
二人は秘密を分け合うように、額を寄せ合いくすくす笑い合う。
「そうですね。仕方ないですよね」
こんなにも誰かに心を開いて笑ったのは、アイリにとっては物心ついてから初めての経験だ。それが王様相手だなんて、変なの、とますますおかしくなってくる。
ああ、この笑顔が好きだな、と素直に感じるアイリは気づいてしまう。
暴君の
──陛下は、噓をついていた私をどう思われるんだろう……。
どう思ったとしても、この笑顔が
「失礼します」
ノックと共に、執務室の
ひそかな
「お楽しみのところ失礼します、陛下。グレル
「追い返せ。神聖な儀式の最中だ」
逡巡なく命じるギルハルトに対して身を乗り出したサイラスは、ギルハルトにだけ聞こえる声で耳打ちした。これまでご機嫌だった王のまなざしが鋭くとがる。
アイリを膝から下ろすと「ここにいろ」と言い置いて、早足で執務室を出て行った。
グレル侯爵、とサイラスは言った。月の聖女を
「レディ・クリスティーナ」
嫌な予感にとらわれ、アイリはサイラスが妹の名を呼ぶのにも気づかなかった。
「クリスティーナ様。クリスティーナ・ベルンシュタイン様」
「え……ああ、はいっ!?」
「どうなさいました、レディ。顔色がお悪いようですが」
「い、いえ、儀式が中断したので、驚いてしまって」
苦しい言い訳をする。
サイラスは王の去っていった方向を見つめ、しばし考えるような間の後に言った。
「今、陛下が謁見に向かった、グレル
「はい。叔……ではなくて、父から聞いています」
「あなた様は陛下の婚約者として──正確には候補ですが、まあ、細かいことは置いておいて、当事者として把握していたほうがいいかもしれませんね。グレル侯は、ベルンシュタイン伯爵家から王妃を
淡々と、しかし、サイラスの言葉には
「そしてグレル侯のように、銀狼陛下と自分の
直截にもほどがあるだろう。アイリがひるんでいると、サイラスはくるりと
「レディ、こちらへ。できるだけお静かに願います」
「え? ど、どこへ──」
「お早く」
連れられた先は、
口元に人差し指を立てるサイラスが手招いた先、部屋の奥には小さな四角い窓のようなものがある。それをサイラスがそっと開くと、
見覚えのある、あの場所は──謁見の間だ。玉座に
どうやら、この部屋は謁見の間に
おおげさな身ぶりをして、グレル侯爵が何やら王に対して
「おお、我が陛下! あなた様は、ベルンシュタイン伯に
アイリはぎくりとして息をのんだ。
「あの
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