3.彼女の嘘と、嘘ではないお菓子と
3-1
本来であれば、王の親族、側近中の側近以外が立ち入ることの許されないプライベートルームは、王のためのくつろぎの空間だ。アイリがエーファから
「こんなところに
「ほら、座れ」
儀式を記した巻紙によれば、その内容は『
気高い狼神は、やすやすとただびとに対して自分の身をゆだねたりはしないという。
髪を梳かさせるほど親密なふれあいを許すのは、最上の
「どうした、何か不都合でもあるのか」
「そういうわけでは、ないんですが」
まさか、会った初日から
「きゃああっ!?」
ギルハルトの
大人がゆうに五人は座れそうな
「『儀式』なんてふざけた茶番だと思っていたが、貴重な
見上げる
と、ギルハルトは、ふう、と息をつき、体から力を
『陛下は大変に
──私、身代わりなのに、王の貴重な時間を
胸の〝ドキドキ〟が、申し訳なさと罪悪感の〝チクチク〟に変わる。
しかし、それでも、
「失礼します」
無防備にさらされたギルハルトの左
思わず
「おまえには、姉がいたな」
「……あね?」
油断していたアイリはきょとんとし、額に落ちる前髪に
「おまえには姉と弟がいると経歴書に記していたが、
「あ、ああ……アイリ・ベルンシュタインのことでしょうか」
「姉であろう?
「えっと……アイリは、私の実の姉ではなく、養女でして、本来はイトコなんです」
「ほう。では、その『アイリ』とやらは、どのような人物だ」
アイリ・ベルンシュタインとは──つまり自分とは、どんな人間か? 考えたこともない問いを受けて答えあぐねるも、
「……姉は…………私とは、似ていません」
「どんなふうに似ていない?」
「…………、地味な人、だと思います」
何も
実際、噓というわけでもない。
妹は、
そこで、
多額の謝礼を
ちなみに、ルプス国の貴族女性同士では、茶会で
立ち回りがうまい妹は、
『クリスティーナは、
「……姉は、要領が悪いようでして……」
そんなアイリはといえば、妹の行いに特に反感は覚えなかった。
自分は長女であるし、妹の
当然、そんな実情など口に出していないが、ギルハルトは大きくうなずいた。
「なるほど。姉のアイリは、『社交界好きのクリスティーナ・ベルンシュタイン』とは似ても似つかない。アクセサリーなどろくろく持っていないような?」
「……え?」
「おまえと違って、姉は社交界には出ないタイプなのだろう?」
ギルハルトの
昨日、『アクセサリーを
「まあ、そういったことを
「王都中、だなんて」
そんな、まさか……。王都は広大で、
「陛下は……どうして、姉のことなど、お知りになりたいのです?」
「俺は今、俺の
ギルハルトの手がすいと動いた。
彼の長い指がアイリの
ただでさえ青くなっていたというのに、今度は赤くならざるを得ず、やはりこの王の前では感情が
──いっそ、この場で謝ることができたら、どれだけ楽かしら……。
罪悪感に
「ん? どうした、
必死に言い訳をひねり出そうとするアイリに向かって、ギルハルトは
からかわれている?
まだだ、まだ終わっていない。
王の
「わ、わ、私のことよりも、私は、陛下のことをうかがいたいですっ」
「俺?」
「はい! じ、実は、私も、私の
誰がどう聞いてもわかるような苦しい話題のすり
──もしかして、照れていらっしゃる……!?
自分なんかに興味を持たれて照れる殿方がいるなんて、いつものアイリであれば考えもつかないが、今はとにかく時間を稼ぎたい。
「私、陛下のこと、もっともっとたくさん知りたいんですっ。お願いします、いろんなことを教えてください!」
ギルハルトは
「おまえ、俺のオオカミ耳を見て……どう、思った?」
自分の正体を
ギルハルトのふかふかな
「
「ああ、確かにそんな顔をしていたな。しかし……驚いたのなら、どうしてあの時に逃げなかったんだ」
「え……?」
「俺は気が立っていた。戦うすべを持たないおまえには、さぞ
確かにあの時、命の危機を覚えた。逃げてしまおうかとも思った。それでも、結局、アイリは留まった。説明はつかないが、あの時、直感したのだ。
この人を、置いて行ってはいけない、と。
説明がつかないので、アイリは事実だけを答えた。
「陛下、お苦しそうでしたし……」
「だから、放っておくわけにはいかないと? 自分が危険にさらされていたのに? 命も
皮肉っぽい口調でここまで言ったギルハルトは、なぜか変な顔をする。まるで、甘いシロップだと思って口に
「…………すまん。今のは失言だ。忘れてくれ」
アイリの膝の上で、彼は気を落ち着かせるように長く長く、息をつく。
「どうも、この体勢はいかんようだ。まるで甘ったれの幼子ではないか。……
もごもごと言い訳じみたことをごちると、ギルハルトはぷいと顔をそむけた。
そのしぐさは、まるで──。
──陛下、落ち込んでいらっしゃる?
確かにギルハルトの言う『失言』は、これまでの〝銀狼王〟とは違い、アイリを手玉に取る大人の男という感じではなかった。
この王は、どうも
容易に想像ができたアイリは、恐れ多い、だとかの
ぴく、とわずかにみじろいだが、ギルハルトは撫でるがままにされている。さっきまで、あんなに
「笑うほど、俺のオオカミ耳はみっともなかったか」
むっとした
「撫でるのは、やめなくていい」
「え? あ、はい……!」
「──って、違うんです! 陛下のあのお耳、みっともないなんて思ってませんから!」
「ならば、どう思ったんだ」
「……申し上げても、
「正直に言ってみろ」
「かわいかった、です」
「かわいかった? 気が立ったあの状態の俺がか? 正気か」
「失礼だとは思ったんですが、『正直に』とおっしゃったから」
「おまえは本当に
ギルハルトは、まるで今、生まれて初めて聞いた覚えたての言葉のように、『かわいい』を口の中で転がしている。
「初めて言われたな……」
異形の耳について、他の誰かに、何かを言われたことでもあるのだろうか。
「陛下のあのお耳を知っている方は、他にいらっしゃるのですか?」
「今、生きている者で知っているのは、サイラスとおまえの二人だけだ」
「……そうなんですか」
「そういえば、サイラスの
拗ねたような声の調子は、
「他に俺の異形の耳を知っていたのは死んだ母親と、その腹心どもくらいか。母は……あの人は、ひどく恥じていたな……」
十年前、先王は、自分の
しかし、異形の耳については知ることなく亡くなったこと、母はギルハルトに対して獣耳については秘密にするよう厳命したこと、その言葉を守って秘していたが、この半年の間に、サイラスには知られてしまったこと。結果として
「陛下のお母様、『
だからギルハルトは、あの満月の夜、あんなに必死に異形の耳を『見るな』と
「まあ、無理もないがな。一国の王が
想像してみる。自分が、この美しい王の秘密を知っている妃だったとして──。
「
「なんだと?」
「だって、皆さんは知らないのに私は知ってるって、特別みたいですし。で、でも、臣下の方々は、きっとあのお耳を見ても、みっともないなんて思われませんよ。神話は本当だったんだって驚くとは思いますが。私も、これまで自分が月の聖女の
アイリは悲鳴を上げた。膝枕の格好のままのギルハルトに大きな掌で、ぐい、と後頭部を引き寄せられたのだ。
「おまえは見た目に似合わず、
「は……!? だ、
「……駄目か」
素直に引き下がるも、間近にあるギルハルトの顔が心底残念そうな表情を作る。今の彼にオオカミ耳が生えていたら、やはり、しゅんと垂れていただろう。
「ベルンシュタイン一族は、みんなおまえのように
ベルンシュタインの女である妹が絶賛
すぐ間近に
見上げてくるアイスブルーの瞳が
「クリスティーナ」
妹の名を。
それに、胸が痛む自分がいる。なぜだろう──噓をついている罪悪感のせい? それとは少し違うような……。
胸の痛みに気を取られるアイリの頰が、するりと撫でられた。色めいた手つきに、先ほどの痛みとはまた別のざわめきを胸に覚えてアイリはたじろぐが、後頭部に置かれたままのギルハルトの手が、逃げるのを許してくれない。
「俺の秘密を教えたんだ。今度はおまえの秘密を教えろよ」
アイリの〝秘密〟は他でもない、身代わり婚約者という事実だ。
電流でも流されたように背筋が
「おまえは俺の特別だ。俺も、おまえの特別にしてくれないか?」
見上げてくる瞳が、
首席近侍長の
「陛下。執務のお時間です」
「……な? 首を絞めてやりたくなるだろう」
やれやれ、とばかりに彼は何事もなかったように前髪をかき上げた。一方のアイリはといえば──。
──た、た、助かったあ────!
命の恩人と呼んでもおおげさではない。正味二度目の救済に、心の中で、サイラスにひれ伏さんばかりに感謝を
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