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 結局、その日は、ファッショナブル集団により朝から夕刻まで着替えさせられ、あらゆるしょの寸法を測られ続けたアイリである。

「し、死ぬかと思った……」

 疲れ果て、げっそりとうなだれそうになる自分をし、背筋を伸ばして正餐の間に入った。七つある儀式のうちの二つ目、王と食事を共にする正餐会にいどむためだ。

 ──えたもうじゅうの群れにでも放り込まれたかと思った……仕立屋のみなさんも、お仕事だからいっしょうけんめいなんだろうけど……。

 よってたかって、好みの色や宝石、ドレスの素材や型などの質問を浴びせかけてくる仕立屋たちは、自分こそがおうのお気に入りに選ばれるのだと目をギラつかせていた。

 彼らは、ここで王妃に気に入られるかそうでないかで王都でのステータスがおおはばに変動する、とエーファが耳打ちしてくれた。エーファがあのファッションモンスターたちをせいぎょしてくれなければ、いまごろ、アイリは泣いて心を閉ざしていたことだろう。

「まだ二日しかってないのに、エーファさんにはお世話になりっぱなしだわ……」

 いつもは義理の家族を世話する立場のアイリはしみじみ思う。

 使命を背負い、ひとり王宮に放り込まれたアイリにとって、彼女のがおはひとときのいやしになっていた。今、アイリが身に着けているドレスも、エーファが『このお衣装もよくお似合いですわぁ』と、にこにこ笑顔で着付けてくれたものだ。

 仕立屋のひとりが持ち込んだこの衣装は、さすがに一流のプロが見立て寸法直ししただけある。せいひんとはいえ、妹のフリルたっぷりの少々胸周りがゆるいドレスよりもはるかに体に合っていた。

 フリルの代わりに、ため息が出るほどせんさいしゅうほどこされたドレスはエレガントで、オフショルダーのデザインはアイリのほっそりとした肩をれいに演出している。

 耳をかざあでやかな宝石をあしらったイヤリングは、瞳の色を引き立てる。

 昨晩の聖女っぽい衣装もだが、よそおだいでアイリのいんあいいろの瞳がミステリアスでわく的に見えてくるから不思議だ。……なんて、他人ひとごとのように思うのは、実際に今、我が身に起こっている出来事に現実味がまったくないからだ。

 これから挑む王との正餐会──ルプス国の貴族にとって正餐会は、招待者と同等に位置すると認められて初めて招待されるもの。つまり、最上のえいである。

 アイリにとって分不相応を通り越して、非現実的なのだ。自分に課せられた『身代わり』という使命だけが罪悪感を伴って生々しい。

 慣れない装いもさることながら、正餐の間にはきゅうと侍従がずらりと居並び、きらびやかなしょくたくは銀のしょくだいや食器がまばゆくかがやいていて、アイリをようしゃなくあっとうする。

 そして何よりも彼女にとって現実味がないのは、テーブルを挟んだ向かい側で、美しくもたくましいぎんろう陛下がほほえみながらこちらを見つめていることだった。

 もはや異世界に等しい。

 栄誉だとか、きらびやかな生活だとか、すべては妹に約束されてきたものだったし、それが正しいとアイリは信じて疑わなかった。だから日常的にひんそうな食事だろうが、使用人の代わりを務めようが特に不満はなくて──。

「どうした? クリスティーナ」

 ギルハルトから妹の名で呼ばれたアイリは、無理やりに口元にみを作る。

「少し、緊張を」

「楽にしてくれ。『儀式』なんて意識しなくていい、俺はおまえと食事を楽しみたい」

「はい……」

 目の前の白磁の皿に、がねいろに輝くコンソメスープが注がれた。すばらしくおいしそうな香りに、アイリのおなかが小さく「くうっ」と空腹をうったえる。

 生まれて初めて男性とどうきんした心労を引きずったまま、慣れない着せ替えが延々と続くという緊張状態が続き、おなかがすいていたことすら忘れていた。

 ──よし。せっかくだから陛下の言う通り、食事を楽しもう!

 そもそもほんぽうな妹の身代わりを務めているのだから、おくれするのはまったく〝クリスティーナ〟らしくない。

 さっそくスープをスプーンですくい、口に運んだアイリはしょうげきを受ける。

 ──こんなおいしいスープ、飲んだことない!

 少しぬるいと感じたが、温度が低いだけにていねいに取られただしの風味がよくわかる、すばらしく上品な味なのだ。

 代々続くゆいしょ正しい貴族であるベルンシュタイン伯爵家の食事は、現状、大変に質素である。

 ごうせいなメニューが食卓に上るのは祝日や特別な祝い事がある日だけ。しかも、養女という負い目を抱えたアイリは、食べざかりのていまいにおいしいものはゆずってしまうのでますます質素にならざるを得ない。スープだけで感動のなみだを流しかけていたアイリは、目の前に次々と給仕される豪勢な食事に眩暈めまいを起こしかけていた。

 ──な、なんておいしそうなの……!?

 美しく盛り付けられた前菜から始まり、メインの魚料理はこんがりとしたたらのムニエルだ。一口食べてみれば。

 ──こうばしくて身がとろけそう……。

 うしのソテーは感動的に柔らかで肉のうまみが広がり、口の中が幸せでいっぱいになる。さらにメインとして出てきたのは、なんと七面鳥! こんな高級食材、特別な祝日でもほんの数切れ食べたことがあるかないかだ。

 食後のスイーツには生クリームとカスタード、さらにフルーツがいくにも重ねられた断面も芸術的なケーキに、あまっぱいレモンクリームのトルテ、宝石のようなメレンゲのさいは意外にも甘すぎず無限に食べられそうでおそろしい。

 初めて口にしたアイスクリームには心底おどろいた。話には聞いていたけれど、びっくりするほど冷たくて、あわゆきのように口の中でけて……この感動はしょうがい忘れないだろう。

 ──どれもこれも、おいしすぎる〜!

 役目を忘れて、本当に食事をまんきつしてしまうアイリである。周囲の和を乱すことをきょくたんに恐れる性質であるが、奇妙なところで神経が図太いのだ。

 ──こんなおいしい食事を満足するまで食べられるなんて、夢みたい……。

 うっとりと幸福な時間に身をひたしていたアイリは、ふっ、と正面に座るギルハルトかられる笑い声に、我に返った。

 どうやらギルハルトは、ほとんど食事に手を付けず、ずっとアイリを見ていたようだ。その視線が不可解でまばたきすると、再び彼は笑みをこぼして言った。

「いや、悪い。うまそうに食べるものだと思ってな」

「はい、本当においしくて──」

 ──って、いけない……正餐のしゅさいしゃを無視して料理にがっつくなんて、マナーはんだったわ!

 さらに貴族令嬢のマナーとして、会食では食事はひかえめにするのがいっぱん的である。

 ──私、社交の場には付きいでしか行ったことがないから……。

 正式な招待を受けたことが一度もないから、完全に失念していたのだ。

 しゅうほおを染めるアイリがデザートスプーンから手をはなそうとすると、ギルハルトは手ぶりでそれをさえぎった。

「料理人もそれだけ満足そうに平らげられたなら、光栄というものだ」

 おうように言ったギルハルトの温かい気遣いにきょうしゅくしながら、アイリは正面に座る彼の姿を見る。改めて美しい男性だ、と確認せざるを得ない。座しているだけでようただようその姿には気品がある。

 筋骨の逞しさは今朝目の当たりにしていたし、凶暴なところや昨晩はけものの耳まで生やしたところまでもくげきしたというのに、今、目の前にいる銀狼陛下はぼうさをみじんも感じさせない。

 ──本当に、不思議な方だわ。

 彼の持つ野性味と理知のアンバランスはきっと他の誰にもできない。それこそがひつぜつくしがたいりょくであり、人をきつけてやまないりょうの力となっているのだろう。

「やっと食事の皿よりも、俺を見たな」

 ギルハルトは満足そうに笑った。

 ──やっぱり、がっついてると思われてた……!

「どうした。手が止まったではないか」

「っ、いえ、陛下はし上がらないのかしら、なんて」

「気にするな。俺は俺でいそがしいんだ」

 ゆうぜんと座っているだけのギルハルトは、ちっとも忙しそうではない。

「いったん婚約の『儀式』が始まれば、舞踏会を終えるまで『儀式』でしかおまえに会ってはならないのだそうだ。だから、一分一秒が惜しくてな」

 彼は、アイリから目を離すことなく言った。

「食事などとっている場合ではない。一秒でもおまえをこの目に焼き付けておかねばならんからな。食事はあらかた済んだな? ならば、こっちに来てくれ」

 こっち、と指し示されたのは、王のとなりに用意されただった。つう、会食での席順は定められているが、主催者命令なのでアイリは素直に従った。

「失礼します……」

 やけに距離が近いので、ギルハルトから遠ざかろうと椅子を動かそうとすれば、その椅子の背がガッと大きな掌につかまれはばまれる。

「ここでいい」

「は、ですが」

「座れ」

 短く命じられ、そろそろとこしを下ろすと、間近に見つめられる。

 うっかり息をしようものなら、それが綺麗な顔にきかかってしまいそうだ。緊張に息をつめていると、ギルハルトはため息とともにアイリの耳元にささやきかける。

「できることなら食事よりも、おまえを食いたいんだがな。昨晩は寝不足だったとはいえ、せっかくのチャンスをふいにした。おろかなことをしたものだ」

 たっぷりと色香を乗せたまなざしを銀色のまつ毛の奥から向けられたアイリは、昨晩、ギルハルトと同衾したおくを体温までもまざまざとのうに再生してしまう。

「ん? 顔が赤い。熱でもあるのではないか」

 ギルハルトがおもむろに手を伸ばしてくるものだから、アイリはあせった。

 たわむれとはいえ、これ以上、銀狼陛下と身代わりである自分がせっしょくしているところをきゅうてい内の誰にも見られるわけにはいかないのだ。

 人の口に戸は立てられない。妹にはじをかかせてはならない。彼女の輿こしれのさまたげになるのだけはけねば……!

 王の手が自分に触れるよりも早く、アイリはしゅんに食卓の上にあるブドウをふさから一つぶもぐとごういんに彼の口元に持っていった。

「こ、この果物デザート、とっても甘くておいしいですよっ!」

 目の前に差し出されたみずみずしく輝く緑色のそれに、一瞬、きょとんとしたギルハルトは、やがて「ふうん?」とつぶやくと、なぜだかいたずらっ子のようにほほえんだ。

 差し出されたそれを口にふくむ。形のよいギルハルトのくちびるが指に触れ、アイリが赤くなりながら手を引けば、彼はすばやくその手をつかまえた。次のしゅんかん──。

「…………!?」

 なんと、アイリの指に、ギルハルトの白い歯が甘く嚙みついたではないか!

 いよいよ気を失いそうになっていると、彼はとうとうこらえきれなくなった、とでもいうように、くくく、と喉で笑う。

「俺の妃は、いちいち見ていてきないな」

 ──わ、わからないっ!

 陛下はどうして、こんなふうに接してくるのか?

 それとも、心をかき乱さんとするこれらのギルハルトの言動は、アイリの知らないおうこう貴族特有のマナーだとでもいうのか?

 もんで頭の中をめつくすアイリをよそに、ギルハルトはじょうげんな様子だ。

「今朝のひらひらもなかなかそそったが、そのドレスもよく似合っている。れいだ」

 綺麗。

 それはいつでも妹に向けかけられてきた言葉だった。

 だから自分にかけられているとは夢にも思わないアイリは理解した。ああ、このドレスの着付けとヘアメイクを施してくれたエーファさんをめておられるのね、と。

 それには完全に同意だった。見事にかざった自分を鏡の前にして、ほうでもかけられたのかと感動を覚えたものだ。

 おっしゃる通りです、という意味でにこっと笑顔を返したアイリに向かって、ギルハルトは満足そうにうなずきを返すと、アイリのかみをひと房取り上げて、キスを落とした。アイリがぴしりと笑顔を凍り付かせたので、まばたきをして彼はその髪を離す。

「……どうも勝手が摑めんな」

 首をかしげ、ぶつぶつと何やら口の中でつぶやいたギルハルトは、気を取り直すようにして言った。

「衣装はともかくとして、だ。おまえに望みはないか?」

「望み……ですか?」

「何かしいものはないか、と聞いている」

 今すぐにでもかなえてほしい望みならば『これ以上は心臓がもたないですし、ていを疑われては困ります。あまり近寄らないでいただけますか』だが、そんなしつけは当然、口にするのははばかられる。困ってしまって黙り込めば、『望み』を何にしようかなやんでいるとかんちがいをしたのか、ギルハルトはしょうする。

「難しく考えずともよい。婚約者うんぬんきにしても、おまえは俺の寝不足とイライラを改善し、機能を取り戻させた。それに見合ったほうを取らせたい」

 ──『機能』だなんて、ご自分がまるで道具か何かみたいにおっしゃって……。

 不思議に思いつつも、アイリは考えてみる。今まで、自分に対して『何かをしろ』と命じる人はいたけれど、望みを聞いてきた人は一人としていなかった。

 これまで伯爵家では、すべてが妹のために与えられてきたのだから。

「陛下のおこころづかいだけで、十分です。このアクセサリーも、陛下からのたまわりものだとうかがっていますが、その……お返ししたく……」

「ふむ。今身に着けているものは、気に入らないか。ならば新しいものを用意するように、すぐ手配しよう」

ちがうんです! 私はイヤリングだとか、アクセサリーをだん身に着けないので、管理だとか慣れてしませんし、片方でもくしたら大変ですし」

 こんなきらびやかなほうしょく、この先のアイリの人生で必要になることもないだろう。何より、に見つかれば、せっかくの王の心遣いを家計の足しにされかねない。

「つまり、おまえは何が言いたい? ドレスや宝石程度では、おまえを満足させることはできない、というのか」

 げんそうなギルハルトの表情に、機嫌をそこねたかしら、とアイリはうろたえる。

「いえ、そうではなくて! 私、アクセサリーを持っていないわけじゃないんですよ? 子どもの頃、ベルンシュタインの家宝のネックレスを譲り受けたんです。祖母がくなる前に。それでですね」

 自室のたなの奥深くにしまってある、ネックレス。

 だいおくれの古めかしいデザインのそれは、重たすぎて実用的ではない。身につけてどこかに出かけられるようなしろものではなくて──。

 たん、アイリの体中の血がすうっと冷えていく。

「私、には、それがあります。ですから……」

 口の中でつぶやくアイリの青ざめた顔色を見つめていたギルハルトは、ほんの一瞬瞳を細めるが、やがてからりと言った。

「まあいい。必要あろうがなかろうが、おまえにくれてやったのだ。なくそうが捨てようが、おまえの好きにすればいいんだ。こんなものがいくつあったところでただの『物』にすぎん。代わりはある。しかし、おまえの代わりは他にいないからな」

 アイリの手を取ったギルハルトは、うやうやしくそのこうに口づける。

 さらに指をからめられたアイリは、ひえっと悲鳴を上げかける。視線を上げた彼のアイスブルーの瞳がたたえたほほえみに、今度は心臓を止めかけた。

 その色香のなんときょうれつなことか!

 青くなったり赤くなったり忙しいアイリに対して、どうだ? とでも言いたげな得意げな笑みが彼の口元に浮かんでいて、はっきりと理解した。

 この王がする、色香にあふれた言動はマナーなんかではない。彼は、一から十まで自身の魅力を自覚していて、わざとアイリをからかって遊んでいるのだ。

 掌の上で、いいように転がされているのだとわかっていても、心臓がドキドキしすぎてどうにかなってしまいそうだ。

 ──早く、家に帰してください……!

 妹が見つからない限り叶わない、決して叶えてはいけない望みを心の中でさけんだ、その時である。

しつのお時間です、陛下。ご準備を」

 たんたんとした呼び声に、ギルハルトは舌打ちせんばかりに声の主のメガネ近侍長をにらみつけ、アイリは助かった、と胸を撫でおろしたのだった。



 なごりおしくアイリの指に絡めていた指をほどいたギルハルトは正餐の間を去りぎわ、サイラスに耳打ちした。

「……伯爵家について調べておけ。外側だけではなく、内側から念入りに」

「気になることがおありで?」

「クリスティーナは社交界にひんぱんに出ていると言ったな。しかし、あの〝クリスティーナ〟はろくろくアクセサリーを持っていないらしい」

ぎょ

 多くを聞かずサイラスは承知する。

 ギルハルトは視線だけで、藍色の瞳の婚約者をかえった。

 ドレスも宝石も欲しがらない奇妙な伯爵令嬢は、「そのままで」と言い置いたにもかかわらず、に席を立って王を見送っていた。


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