1-4
「待ってくださいいいい! あの、私、話を……、き、聞いてくださいいいいっ」
城仕えの女中たちに
「ここは
殿内に入ると、神話をモチーフにした
王が寝起きしていた殿というだけあり、設備は
たっぷり湯の張られた浴槽にはバラの花びらが浮かんでいて、高貴な香りが
あれよという間に、女中の皆さんに
なすがまま、鏡の前に立たされ自分の姿を見てみれば。
「こ、これ……
「お似合いですよ。
「わたくし、エーファと申しますの。クリスティーナ様のお世話を
「え、あ、はい、よろしくお願いします、エーファさん……って、そうではなくて」
アイリより
美しく着付けられた純白の衣装はたっぷりとしたドレープに
エーファの言うことはまったくのお世辞というわけでもなさそうで、
鏡に映っているのが、いつも地味なドレスばかりを身に着けている自分とは別人のようで、しばし自分の置かれた
放り込まれた一室のど真ん中には、どーん! とバカでかい
「あの、エーファさんっ、わ、わ、私、ちょっと体の具合が」
「それでは、失礼いたします」
笑顔のエーファを筆頭に女中たちは丁寧に頭を下げると、部屋を出て行った。
無情にも閉ざされた
──儀式って……儀式って……そういうアレなの!?
アイリが風呂に入れられる前から場を辞していたサイラス曰く。
『これから行われるのは、伝統ある
……とのことだが、さすがにそこまで無知ではない。何しろ貴族令嬢にとって
目の前の
「うう、このままこのベッドの上で気を失ってしまえたら、どれだけいいかしら……」
心が逃避しかけるが、自分には使命があるんだ、となんとか正気を取り戻す。養い子とはいえ長女のアイリは『義務』とか『使命』とか、そういう言葉にすこぶる弱い。
たったひとりで寝室のど真ん中に立ちつくしていたアイリは、しばしベッドに
夜は
家具らしい家具は、この天涯付きのベッドと、脇にサイドテーブル、暖炉の上に置かれた火のついていない
室内は清潔だが、
──
カツカツと廊下に
室内に飛び込んできた
ギルハルトの様子は、昼間に見た不機嫌なんてものではなかったのだ。
殺気というものが本当にあるならば、きっと今、彼が発しているものがそれに違いない。叔父の機嫌をひどく損ねたことがあったけれど、その比ではない
──婚約のための儀式? イケニエを
しかし、どうにも様子がおかしい。
ギルハルトはベッドに
──もしかして……陛下は、どこか具合がお悪いのかしら?
考えてみれば、昼間に見た王の様子もおかしいといえばおかしかったのだ。文句を言いながらも、彼は厭うていた婚約者との顔合わせを行った。
責務を果たそうとしていたのだ。本当の暴君であるならば、それらを退けたり、無視したりするのではなかろうか。
と、その時、ギクッと肩を
「誰だ!?」
びりびりと空間を震わせるような、
──噓でしょ、サイラスさんっ!?
半泣きになりながらも、もはや逃げられまいと覚悟を決めたアイリは暖炉の陰から姿を現し、クリスティーナを名乗った。
プライベートの寝室に入った非礼を詫びようとするアイリを
「……儀式など知らん。うせろ」
いよいよアイリはその場で気を失いそうなった。
──これはもう、『儀式』は不成立ってことで、いいのよね?
いっそ建物の外に出て、ギブアップしてしまおうか……。
課せられた役目と生存本能のはざまで右往左往するアイリの前で、ギルハルトは再び苦しそうにベッドにつっぷす。
「あ、あの、どうなさいました? ご気分が悪いんですか?」
「……来る、な」
思わずアイリが身を乗り出せば、ギルハルトは
「でも、おつらそうですし……私、すぐに人を呼んできますから!」
「やめろ……!」
外に向けて
「……
絞り出すような声はあたかも
昼間に見た銀狼王の目は落ち着いた色のアイスブルーだったはず。人間にはありえない異様なその
一方のギルハルトはといえば、彼の視線もまた、どういうわけかアイリにくぎ付けになっている。ぽかん、と開いた口から覗いているのは見間違いでなければ。
──
見つめ合うこと、三十秒。
奇妙な
──私の頭、どうにかなってしまったのかしら……。
そんな疑いがもたげた次の
「え、ちょ」
これは覚えがある。なぜだか動物に気に入られがちなアイリが、特に犬から
無心にすりすりされるものだから、まるで飼い犬にしてやるように手を伸ばして後頭部からうなじにかけてを撫でたのは、ほとんど条件反射だった。すると、ぱさ、と銀狼王の
ひく、と動くそれは、作りものではない。
紛れもなく異形の耳だとわかってしまって、アイリの目が点になる。
彼の頭を撫でる手でそれに触れてみれば温かく、ふわふわと
驚きすぎて悲鳴も出ないアイリは
もふもふのそれは今までに撫でてきたどんな動物の毛皮よりも気持ちがよく、うっかり状況を忘れそうになるアイリに対し、ギルハルトもまた、先ほどまでの苦しみようが噓のように
やがて、暖炉の
「み、見るなっ!!」
ベッドの上、まるで
見開いた瞳が、アイリを
その肩が、息を整えようと大きく上下する。ひどく混乱しているらしい彼自身、アイリへのすりすりは無意識の行動だったというのか? されるがまま、あれだけもふもふされておいて完全に
──あれ? 耳が、ない……?
さっきまで確かにふわふわの獣耳が生えていたのに。これにはアイリよりも、ギルハルト自身が驚いた様子だった。
「どういうことだ……まだ月は出ているぞ……? きさま、俺に、何をした!?」
「え? あ、頭を、撫でてしまいました。失礼かとは思ったのですが、つい
「癖、だと?」
異形の耳同様、ギルハルトの瞳は、もう銀色の光は放っておらず、落ち着いたアイスブルーに戻っている。
「おまえは昼間に来た、俺の婚約者……だな?」
「は、はい。おっしゃる通りです」
──私のこと、覚えていらしたんだ……!?
あれだけ無関心な態度だから、
ギルハルトは
「月の聖女……」
信じられん、とつぶやくギルハルトの様子は平静だ。何が何だかわからないけれど、やはり先ほどまで見せていた苦痛からは解放されているようで、アイリは安堵した。
「ここで婚約の『儀式』を行うとは、聞いている。しかし、それは、おまえの準備を整え、後日に
「私も、そう思っていたんですが……サイラスさんが、今夜こちらで陛下をお待ちするように、とおっしゃって」
「サイラスの野郎……」
ギルハルトは憎らしげにうめくが、声に昼間のような殺気や
やがて背筋を伸ばし、ベッド脇に立ったままのアイリに対して言った。
「婚約者
アイリを
謁見の場で、なんて綺麗な男性だろうと思っていたが、こうして月明かりに照らされたギルハルトは、改めて目を見張るような
──私、とってもはしたなくない!?
昼間とは正反対の銀狼王の
目を回し、それこそ気を失いそうになっているアイリに、ギルハルトが言った。
「どうか、楽にしてほしい。こっちに」
ちょっと笑いをこらえるような声で、ぽふぽふ、とベッドの自分の隣を
この部屋にはベッドの他に、座れるような
「あの、無作法をして、申し訳ありません。私、陛下が『儀式』のことをご存じないと知らなくて、こんな
「いや、いい。詫びねばならんのは俺のほうだ。まさか、しょっぱなからこれをやるとは思っていなくてな」
ルプス国の始祖は、人狼とされている。
誰もがフィクションだと思っているその伝承であるが──。
「俺には生まれたその日に、オオカミ耳が生えていた。おまえが先ほど見た、アレだ」
驚きに目を丸くするアイリの表情を見て、ギルハルトは、今は何も生えていない自らの頭を長い指で撫でた。
「見られてしまったからには、教えておかねばなるまい」
人狼であったとされる始祖──初代国王には、月の出ている晩には狼の耳が生えたという伝承が残っている。
「おそらくだが……俺は人狼として『先祖返り』をしてしまったんだと思う。過去の記録に、生まれたその日からオオカミ耳が生えていた王族がいた、というものはひとつもない。だから推測にすぎないのだがな」
──あの動物の耳、狼の耳だったんだ……。
赤子だったギルハルトの頭に生えていた異形の耳は数日で消え、以来、気配すらなかったが──半年ほど前から月夜になると、再びそれが現れ始めたという。
そして、オオカミ耳の出現とともに、彼に看過できない
どういうわけか、気持ちが
「だから、この半年は、この離れの聖殿で独り夜を過ごすようにしていたんだ。特に今夜は満月だろう。月が満ちるにつれ耳が出るばかりか
「そのお耳は、臣下の方々には秘密ということですか?」
「当然だ。この国が本当に人狼に建てられた国だなど、誰も信じていない。臣下も国民も、王がありがたい存在だと
人間離れした膂力とカリスマで異民族を退け、国を建てたという始祖は『神が狼の姿をとり、よき人々を導くために遣わされた天よりの使徒』だとされている。
月の聖女が清き願いをかけた結果、人の姿をとった神は王座についた……これが、ルプス国の
今でも銀色の狼が神として
「ですが、実際に陛下は人狼、なんですよね? あのオオカミ耳を皆さんに見せれば、創国神話に信憑性が出るのでは?」
アイリの
「自分の国が犬っころに建てられたと確認して、喜ぶ臣民がどこにいる?」
──犬っころって……。
なぜだかわからないが、ギルハルトは自分が人狼の血を引いているという事実をひどく恥じているようだった。
「ともかく、そういうことだ。あんなものを見せて、気味が悪い思いをさせたな」
本当に恥じ入るように、ギルハルトはアイリに詫びてくる。
「あんな姿、たとえ妃になる女だろうと、絶対に見せたくはなかったんだ。……それで、ぐずぐずと先延ばしにしていたら、じれたサイラスの野郎に謁見の日を決められた、というわけだ」
ギルハルトの人狼の血による
若い王の周りでは、一部の
そこでギルハルトは、この王宮で唯一、侍従のすべてを動かすことのできる男、首席近侍長のサイラスに王家の歴史を
代々の王でオオカミ耳まで生やした者は王家の記録に残ってはいないものの、人狼のカリスマ性を発揮した名君は
嫡子に類まれな能力が見られる場合、当代の王は
『その理由は、人狼の血を抑える役割を月の聖女が
仮説を立てたサイラスは、ギルハルトに対して婚姻を
これが最近になって、ようやく婚姻に向かって動き始めた
「月の聖女よ。俺はどうやら、おまえのおかげで正気を取り戻すことができた。心から感謝する」
「いいえ、そんな……」
感謝されるような何かをした、という実感のないアイリは
「ところで、月の聖女。俺は、おまえにもう少し触れていたい。いいだろうか」
「触れ……? いえ、あの、いいだろうか、とおっしゃいましても」
「レディに対して、あんな姿を見せたのだ。信用がないのは、
懇願の声に、
温かな
「撫でるのは癖だ、と言っていたが、おまえは男を撫でるのが趣味なのか」
「は!? いいえ、違いますっ! 男性ではなくて、犬だとか、牧場の動物たちだとか、子どもだとか……撫でるのが好き、といいますか、その……撫でてほしそうなら、撫でてあげたいかな、と思っていまして」
「ほう。ならば撫でてほしそうにさえすれば、おまえは大人の男でも撫でるのだな?」
途端、なぜか声に明るさを宿した王はベッドに乗り上げると、アイリを手招いた。
「こっちに」
「……?」
招かれるまま、おそるおそる近づけば、伸びてきたギルハルトの手がアイリの腰を捕えた。次の瞬間にはその腕の中に
「わわ!? 何をっ、なさい、ますかっ」
「寝るに決まっているだろう。ここは寝室で、これは寝台だ。他にしたいことがあると言うなら、喜んで付き合うが?」
「いえ、違っ、……そ、そうだ、『儀式』です! 儀式を、しないといけないんですよね! 陛下は何をするかご存じですか?」
「もう済んだ」
「へ……? でしたら私、すぐにお
しかし、がっしりと腰に回された男の
「あの、ですね? 私、まだ
「わけのわからないことを言う。おまえは俺の妃になるんだろう」
「ちちち、違うんですっ!! あなた様のお妃は」
私じゃなくて妹なんです! と、危うく口走りそうになるも寸前でこらえたアイリは、必死になって別の言葉をひねり出す。
「私たち、本当の婚約はまだしていないと、サイラスさんからうかがっていますっ。ですから」
「そうか。では、今この瞬間から、おまえは俺の妃だ」
勝手に断じたギルハルトは、アイリの薄い背を
「そう
ほらやれ、さあやれ、と腕の中に捕えたアイリに頭を差し出すギルハルトは、なでなでを
緊張と羞恥の限界値は、とうに
すると銀狼王は、こもれびにまどろむ猫のように幸せそうに
「なるほど。慣例も馬鹿にしたものではないな……」
その顔があまりにも幸せそうなものだから、やめるわけにもいかず、わしわしとうなじのあたりを念入りに撫でると、彼はくすぐったそうな声を漏らした。ドキッとして、思わずアイリが手を止めると。
「やめるな」
「あ、はいっ」
「こんなに穏やかな気持ちになったのは、いつぶりだかわからない。いや……初めてかもしれんな」
自分よりも一回り以上は立派な
やむを得ず、抱き
──結局、『儀式』ってなんだったの……?
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