花の家 〈3〉
女性が家を出てどれくらい経ったのか。わたしはそっと息を殺して階段から首だけを出して階下を窺いました。静まりかえっています。
ほっとして、ようやく体の力が抜けました。
文机に戻って、女性が持ってきてくれたグラスを手に取ります。グラスの表面についていた水滴が、わたしの手にべったりとつき、茶色く濁りました。
河川敷の公園で遊んでいたまま、この家に来たのです。
手を洗いたくなって、階段を下りました。廊下を抜けて、手洗い場を探します。
と、キッチンの手前の壁が飛び出していました。
壁を回って覗いてみると、階段がありました。二階へ続く階段です。
玄関を──その横にあるはずの階段を振り返って、再び眼前の階段を仰ぎます。
重厚な階段でした。黒々とつやのある、古い木で組まれた階段です。玄関脇の合板で作られたそれとは全然違います。
どうして階段がふたつもあるんだろう、と不思議に思って、けれど深く考えることなくキッチンで手を洗うと、わたしは重厚な階段に足をかけました。
冷たく暗い階段でした。
上りきると、壁がありました。──壁しか、ありませんでした。
踊り場のどちらを見ても、階段と同じような頑丈な木でできた壁がそびえています。引き戸なのだろうか、と手で触れてみてもとっかかりひとつありません。
わたしは諦めて引き返しました。
どこにも続かない階段を下りて、廊下を通って、玄関横の安っぽい階段から二階へ上がります。
二階の和室に出て、もうひとつの階段があるはずの方を見ました。
襖に遮られた隣の部屋を覗きます。和室でした。大きなタンスと押し入れがあり、その奥に引き戸があります。
駆け寄って引き戸を開けようとしましたが、がこん、と揺れるだけで動きません。
見れば、戸のレールに釘が打たれて開かないように細工されていました。
でも、あの重厚な階段の先にあったのは、こんな引き戸ではなく壁でした。
ならば、この戸の向こうにまだ空間があるはずなのです。
さすがに釘を抜くこともできず、わたしはそれ以上の探索を断念せざるを得ませんでした。
大人しく文机の前に戻ったわたしは、改めてグラスを手に取ります。
冷たい感触に、喉が渇いていることを自覚しました。
そのとき、シュワシュワと氷の縁から泡が立っていることに気がつきました。炭酸水でした。グラスの中で氷に押しつぶされているピンクの花も泡にまみれています。
わたしの母は「体に悪いもの」を食べさせてくれない人でした。ケーキやハンバーガーといった食べ物から、コーラやサイダーといった飲み物まで、わたしはほとんど口にしたことがありませんでした。
そっと舌を浸して、そのあまりの刺激にすぐに引っ込めました。強い炭酸の刺激をひどい苦みに感じたのです。
グラスを持って下り、キッチンに流しました。氷とともにピンク色の花が転がり出ます。
ブロック塀と建物との間に咲いていた、あの花でした。
グラスを軽くゆすいでから、水道水を注ぎます。
ぺたぺたと部屋を通って、掃き出し窓の前に立ちました。窓ガラスに触れんばかりのところまで葉が伸びています。
花の蜜が染み出た水を飲んでみたかったのです。
グラスを持ったまま鍵を外して、窓を開けました。
むっ、と生魚が腐った臭いが押し寄せました。目にしみるほどの強烈な臭いです。二階で嗅いだ悪臭は、この庭からしていたのです。大慌てで窓を閉めました。
みっしりと生えた植物の間に、白い箱がありました。二層式の洗濯機です。ひどく汚れて、プラスチックの部品がささくれています。
洗濯機の蓋が、ガムテープやビニルテープで何重にも、隙間なく留められていました。
こんな臭いのする庭に咲く花を飲み水に入れる気にはなりませんでした。
わたしは窓の鍵を閉め直し、階段を上がって二階に戻ります。涼しく臭いもしない和室に座って、ぬるい水道水を飲んで、畳の上に寝転がりました。
そうして、眠り込んでしまったのです。
気がついたときは、父の車の助手席でした。
うっかり眠りこけたまま、父に抱えられて帰路についていたのです。
父はあの女性のことを説明しませんでした。わたしも、あの女性について訊くことはありませんでした。
わたしと父は、まだ蒸し暑い公園の前で別れます。
しばらくブランコに揺られてから、母の就業時間に合わせて職場へ駆け戻ります。
母には、あの女性のことはおろか、父に会ったことすら話しませんでした。
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