行き止まりの廊下 〈3〉


 あの廊下がなんなのか、わからないまま、半年ほどが過ぎました。

 次第にキッチンで料理をしていても背後が気になるようになりました。壁を一枚隔てた廊下で、なにかが息を潜めているような錯覚がつきまといます。


 土曜日の夕方のことでした。いつもは日曜日にしか現れないご隠居の娘さんが訪ねてきたのです。四十代半ばだと聞いていた娘さんはやつれていて六十代半ばに見えました。ご隠居の奥さんだと言われても信じてしまいそうでした。

 ちょうど夕食の準備を終えたところだったわたしは、慌てて娘さんの分の食事を作り始めました。

 ご隠居の食事をベッドの簡易テーブルに、娘さんの分をリビングのテーブルに並べたころには、とっくにサラさんは帰ってしまっていました。

 帰宅するわたしを、娘さんが玄関まで送ってくれました。

 そのとき、うっかり「ご隠居の息子さんは手伝いにいらっしゃらないんですね」と余計なことを言ってしまったのです。

 娘さんは怪訝な顔をしました。

「兄は子供のころに死にましたけど?」

「失礼しました」と詫びてから、あれ? と思います。「ご隠居が、あの廊下に息子さんがいらっしゃるとおっしゃっていたので……」

「あの廊下はっ」娘さんの声が低く、強くなりました。「母が首を吊った場所です」

 絶句して、挨拶もそこそこに辞しました。まさか、奥さんのためにリフォームした家で奥さんが自殺しているとは考えもしませんでした。

 あの廊下について、誰もが違う証言をしていた理由を今更察します。本当のことなど、口にしたくなかったのでしょう。


 ところが、わたしの「察し」はあっさりと否定されました。

 件の友人が「奥さんは、家が完成する前に亡くなってるよ」と言ったのです。

 なんでも、体を壊した奥さんのために家を乗っ取ったものの、リフォームの完成を見る前に亡くなったというのです。さらに。

「首吊り? ないない。あの奥さんは病死よ?」

 もはや誰が本当のことを言っているのか、わからなくなりました。

「あ、それと、ご隠居のお子さん、娘じゃなくて息子だったわ」

「ああ、子供のころに亡くなったっていう?」

「……生きて刑務所にいるけど? もう五十近い歳だね」

 身内が刑務所にいると言えず死んだことにしているのだろうか、と思ったものの、もはやここまでくると全てが疑わしく感じられました。

「念のために、恐るおそる訊くんだけどさ、日曜日に来てる女性はご隠居の娘さんでいいんだよね?」

「いいんだけど、正確に言うとご隠居の娘さんじゃなくて、あの家の娘さん」

 嫌な汗が出ました。あの家の、ということはご隠居が乗っ取った家の、追い出された家族の娘さんということになります。

 ──あの廊下は母が首を吊った場所です

 娘さんの声を思い出します。あれは、家を乗っ取られた母親が首をくくった、という意味だったのでしょうか。

 なにをどうすれば、家族を追い出し死に追い込んだ老人を日曜ごとに訪ねる気になるのか、皆目わかりません。本当の家族と確執でもあったのでしょうか。

 わたしたちは詮索をやめました。複雑な家族関係と不可解な間取りの答えなど、当人以外知りようがないのです。


 そしてあの月曜日が来ました。

 蒸し暑い夏の夕暮れでした。ふらふらと白川疎水を歩いてすると、ご隠居の家の前に救急車が停まっていました。警察官の姿も見えました。

 わたしはさも興味深そうに救急車と警官を見ながら、家の前を通り過ぎようとしました。

 玄関に、娘さんが立っていました。警官と何事かを話しています。

 娘さんの視線が、確かにわたしを捉えました。わたしたちは数秒見詰め合い、見知らぬ者同士のように目を伏せて、別れました。

 わたしはご隠居の家を素通りして、帰宅しました。それきり、あの家に行くことはありませんでした。


 あとで聞いたところ、月曜の朝、コマチさんが出勤したときにはすでにご隠居はベッドの上で息絶えていたそうです。

「まだ温かかった」とコマチさんは友人に語っていたそうです。

 コマチさんはすぐに娘さんに連絡をしたそうです。すると娘さんは「そのまま置いておいてください」と答えたといいます。

「わたしが帰ってから救急車を呼びますから、コマチさんは洗濯だけして帰ってください」

 そう言って電話を切った娘さんは午前中いっぱい仕事をし、午後から早退してデパートで買い物をしてからご隠居の家へ行ったそうです。

 ご隠居の死因は病死ということになったと聞きました。なんでも亡くなる前日の日曜日、わざわざかかりつけ医の往診を受けていたというのです。

 わたしたちはぼんやりと、なのだろう、と理解しました。娘さんはようやく、自分の家を取り戻したのです。


 しばらくして、お線香を上げに行った友人から「あの廊下」と報告を受けました。

 それらしき場所が白いベニヤ板で塞がれていたというのです。

「でも」と友人は鼻を鳴らして言いました。

 ──確かに、火事っぽい臭いがした。と。


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