6.千乃――灯台下暗し
私はふと、あることを思いついた。
日野君のいう『マコト』と、『真琴』が同一人物なのか、本人に聞いてみよう。
私はドア越しに話しかける。
「真琴。今日二回目になっちゃって、ごめん。日野律って人、知ってる?」
「……なんで」
何を言っても無反応だったのに、日野君の名前だけで返事をした。なぜ?
「その人に、『マコト』って人を知っているか聞かれたの」
「『日野』かは知らないけど、『リツ』なら知り合いにいる。……もう良い?」
「話したいことがあるの。開けて」
もしも、日野君が真琴の知り合いなら――さらに言えば、親しい仲なら――状況は好転する。直感でしかないけれど、そんな気がしてならない。
「顔も見たくないんだろ?」
「ううん違う。あの夜のこと、ごめんなさい。被害者面をした私は最低だと思う。真琴は悪くないの。真琴を責めたり怒ったり、私はもうしないし、そもそもできない。むしろ、真琴を傷つけてしまったなら、私は――」
すると信じられないことに、鍵を開ける音がした。
「……入っていいの?」
ドアを開ける真琴は頭を下げていた。彼は背が伸びていた。
「千乃。指のこと、ごめん」
「お願いだから、謝らないで」
顔をあげた真琴と目が合う。私とお父さんとは違う、お母さんと同じ焦げ茶の瞳。
部屋の中は、あの日と変わっていなかった――掛け時計を除けば。
私がベッドに座ると、真琴はぽつぽつと話し始めた。
『リツ』は――初等部の三年の夏休みのとき、公園で知り合った。多分、一番仲良くなった友達。バスケ教えてもらった。
ちょっと話がそれるかもしれないけど、俺って数学が好きだったでしょ? ほら、幼稚園生の時点で、小学校高学年の算数の教科書を読んでいたほどに。
水白に入学してからの授業で、『引き算は、大きい数から小さい数を引くものだから、小さい数から大きい数を引いてはいけません』ってやったんだよ。
それで俺、『違う。マイナスになる』って言ったんだ。そしたら先生が『まだ習わないことだから黙ってなさい』って言うんだ。酷い話だ、本当に。
周りのやつからはやし立てられた。それで、からかいが段々エスカレートしていった。三年生になる頃には、一人で過ごすことにもう慣れたね。俺は間違っていないのに『知ったかぶり』って揶揄されていた。
まあ、クラスは別でも千乃がいるし、中等部の数学の先生達には可愛がってもらえたから、学園自体は苦じゃなかった。
話を『リツ』に戻すよ。『リツ』と一緒にいるとき、つい口が滑って、素数の話をしたことがあるんだ。口にしてから、まずい、って思ったけど、『リツ』は馬鹿にしてこなかった。それがすごく嬉しかった。
その年の一言日記は、何日分も『リツ』のことを書いたんだ。どんな文面かは忘れたけど、友達と遊びました、みたいなことを書いたと思う。夏休み明け、それを提出しようとしたら、隣の席のやつに見られたんだよ。そしたら、俺が嘘をついてるって騒ぐんだ。こいつに友達がいるなんて絶対違う。俺は放っておいたんだけど、騒ぎを聞きつけた先生が言ったんだ。『三島君、書くことがないからって嘘を書いてはいけません』。流石にこの発言は問題だったらしくて、後日先生から謝られたけど。
この一件で、俺は同級生と関わるのをやめた。『リツ』ですら会いたいと思えなかった。いつか『リツ』からも馬鹿にされてしまうんじゃないかって思うと、怖かったから。
代わりに、コントラバスに打ち込む時間を増やした。母さんは喜んだよね。俺がさらに上達していったから。
六年生になるころには、中等部の数学はマスターした。そのころの俺が不登校にならなかったのは、数学の高畠先生のおかげだったと思う。……あ、千乃は知らないか。俺らが中等部に進学するタイミングで定年退職した先生。分からないところは全部先生が教えてくれた。放課後、わざわざ中等部の数学科まで質問しに通ってたのは覚えてるでしょ? あ、良かった。
でさ、中等部になったらオーケストラ部に入ったじゃん? 入った途端に俺、なまじ上手かったからコンバスの先輩達にやっかまれたんだよ。
糸が切れた、とでも言えば良いのかな。高畠先生もいないし、コントラバスに集中できる環境じゃないし、周りの馬鹿達はうるさいし。
面倒くさくて、登校拒否。
もし千乃みたいなコミュニケーション能力があったら、何かが違ったかもしれない、なんて思うよ。
「私なんかに、詳しく理由まで話して良かったの?」
「話しすぎたかな」
「ううん、そんなことない。教えてくれてありがとう」
今聞いた話は、ほとんどが初耳だった。
「ずっと近くにいたはずなのに、気づけなくてごめん」
真琴が一人でいるのは、好きでそうしているんだと思っていた。一言日記の件は知っていたけれど、日記の内容までは知らなかった。
「別に良いって。俺が話さなかったからだよ。母さんにも父さんにも、ここまで詳しく話したことはない。だから千乃は悪くない」
「でもっ――毎日毎日、偉そうに声かけて……」
迷惑だったはずだ。
「なんで千乃が謝るのさ」
ふっ、と真琴の頬が緩んだ。
「ねえ、千乃。その『律』って人に会わせてよ。『リツ』なのかどうか確かめたい」
断る理由はなかった。
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