5.千乃――セロ弾きの私
まさか、日野君が『
はるかに話しかけられたのを良いことに、私は日野君を無視してしまった。なんて感じの悪い人……。
憂鬱な気分のまま、隣――双子の弟の真琴――の部屋をノックする。
「ただいま、真琴。この前渡した封筒、確認してくれた? 奨学金の書類だったらしいけど、お母さんと読んでよ?」
水白学園では、考査の成績優秀者に、独自の奨学金を給付している。真琴は定期考査の日だけ保健室へ登校をして、どの教科でもほぼ満点を取ってくるのだ。そんな訳で、私立に在籍し続けていられる。
少し立ち止まってみるが、いつもどおり、返事はない。けれど、真琴が不登校になってから毎日やっている習慣だ。諦めて自室に入る。
ドアを開けたら、真っ先に目につくのはチェロケース。私はそれと、自分の左手を交互に眺めた。 自然と去年のことを思い出す。
中等部三年生の春。そのころの私とはるかは、オーケストラ部に所属して、チェロを弾いていた。
「あと一週間だね」
美術室のカレンダーを見たはるかは、私にそう言った。私たちは来週、講堂で行われる校内コンサートで、二重奏を披露する予定だ。それに向けて、空いている教室を借りて練習している最中なのだ。
「ほんと、楽しみ。あっ」
「ん?」
「皆実先輩が今から聴きに来るってよ、はるか。メッセージ来た」
皆実先輩はオーケストラ部ではないけれどクラシックが好きで、時々私のチェロを聴きに来る。前はソロを見せていたけれど、今ははるかと一緒に合わせるのを見せている。
「おっけい。じゃあ橘先輩が来るまでに合わせようよ」
弾き始める。音が重なって、膨らんで。流れるように曲が紡がれていく。私はこの時間が好きだ。夢中になれる。でもそれは一瞬に感じられるのだ。ああ、もう中盤?
「失礼しまーす」
皆実先輩が入ってきた。ほんの少し頭を下げるが、弾き続ける。――はあ、終わっちゃった。
パチパチと、皆実先輩の拍手が美術室に響く。
「はるか、最初から」
「うん」
私たちは同じ曲を弾き始めた。
自主練を終え、はるかは美術室の鍵を閉める。すでに、皆実先輩は天文部の活動に戻っていた。
「真琴君って」
はるかはそっと呟いた。
「春休み前から学校来てないよね」
「うん……」
そうなのだ。真琴は二月半ばから不登校気味になり、四月の今もそのままだ。
「このままだと、強制的に退部かもって顧問が言ってるらしいよ。噂だけど」
「そんな! コントラバス、ただでさえ人数少ないってのに」
真琴はコントラバスをやっている。
幼稚園生の時から、私はチェロを、真琴はコントラバスを習い始めた。ヴァイオリンを弾けるお母さんが、子どもと演奏できたら楽しいだろう、と言ったのだ。私は中の上程度の実力でしかないけれど、真琴はとても上手くて、コンテストではいくつも賞を取っている。
「でも。それもそっか。休んでいるのも退部しているのも、変わらないか……」
俯いた私の顔を覗き込んだはるかは、ごめん、と言った。
もう校内に人はほとんどいない時間帯だ。私はとぼとぼと歩き始めた。
「鍵」
「え?」
振り向くと、はるかは美術室前にまだ立っていた。
「鍵、職員室に返してくるから。あたし、こっちの階段から行く。じゃあね、頑張ろっ」
暗闇でも分かるはるかの笑顔。私はそれにちょっぴり心を救われて、昇降口へと向かった。
「ただいまーっ」
いくつかの星が瞬く夜だった。
「千乃、おかえりなさい」
エプロン姿のお母さんが迎えてくれた。ブレザーを脱ぎ、手を洗った後、二階へと駆け上がる。真琴の部屋のドアをノックする。
「真琴、ただいま」
返事は期待していないので、そのまま自室に入ろうとしたそのとき。
「……なんで毎日毎日説教されなきゃいけねえんだよ」
――今思えば、真琴の言葉なんて無視すれば良かったのだ。長時間の練習に、馬鹿げた噂話。この日の私は疲れ切っていて、キレやすくなっていたのだと思う。
「何よ。今のもう一回言ってみなさいよっ!!」
普段私は怒らないので、真琴は一瞬戸惑ったようだ。一瞬の静寂、そしてそれを破る罵声。
「うるせーよ! 黙れ!」
「良い加減、出てきてよ。この引き籠もり!」
私は廊下に置かれている、大きな工具箱を抱え、扉にぶつける。すると簡単に鍵が壊れ、扉が開いてしまった。
久しぶりに見た真琴は真っ白で、モヤシみたいだった。
「何だ、元気そうじゃん?」
私はそう言って、ゴミ箱を蹴飛ばす。そんなことをしながらも、内心では震えていた。真琴が本気を出したら、勝算なんてないからだ。でももう歯止めが効かない。止まれないや、どうしよう。
「出てけよ!」
ジュースパックが飛んでくる。ブラウスにオレンジジュースが降りかかった。甘い匂いが広がる。もう四月半ばだというのに肌寒くて、ジュースは体の熱を奪っていく。それが腹立たしくて、私はバレッタを投げた。見事に額に当たる。
真琴もさらに激高したらしく、今度はエアコンのリモコンを投げつけてきた。しかしそれは私の方へは飛んでこなかった。
「えっ――」
リモコンが掛け時計に衝突し、それが真下に落ちた。そしてその下のトロフィーにぶつかり、ゆらりと倒れてくる。
これは避けなきゃ。だって、当たり所が悪ければ死ぬもん、これ。
避けようとした私は、バランスを崩して転倒してしまった。
ドスッ。トロフィーは私の隣に落下した。
ああ良かった。緊張の解けたその瞬間、私は左手の耐えがたい痛みに気がつく。ちょうど左手は体の下敷きだ。恐る恐る左手を見ると――人差し指と中指が、普通は曲がらない方向を向いていた。
こんな指の状態じゃ、チェロは弾けない――。
ぼろぼろと涙がこぼれる。横で立ち尽くす真琴をキッと睨むと、彼は慌ててお母さんのことを呼びに行った。
お母さんは全速力で階段を上ったらしかった。息切れが激しい。
「びょ、病院行くよっ」
いつもは物静かなお母さんが動転している。
私、何を間違えたのかな。涙を拭う間もなく、車に乗った。
「……ですから、骨折した部位が……リハビリを終えて……このぐらいの期間は見積もっておいたほうが……」
夜勤の医師の声は途切れ途切れにしか聞こえない。
彼は困惑気味だった。私が処置中、泣き続けていたからだ。
「ありがとうございました」
憔悴しきっているお母さんに連れられ、非常口灯が眩しい廊下に出る。長椅子では真琴が待っていた。
「千乃、ごめん」
蚊の鳴くような声で謝られ、私は再び爆発した。
「あんただって、コンバスやってるんだから、指が大切なことぐらい分かるでしょう! それとも、大して上手くないから馬鹿にしてる? ふざけんな!」
楽器は違えど双子なのに、どうしてこんなに音楽の才能に差があるんだろう――? 真琴は天才だなんて言われるのに、お母さん譲りだねって言われるのに、私はそうじゃない。その事実は私にとっては呪いのようだった。しかし今、自分を苦しめた呪いは、罵るための材料と化してしまった。
「もう部屋から出てこなくて良い! 顔も見たくない。一生引き籠もってれば!?」
一気にまくし立てると、横を通った看護師に「お静かに」と言われた。
そして気づく。
これは私の不注意による事故であって、真琴が加害者の事件ではない。真琴に責任はない。だって私がお節介焼いて勝手に転んだのだから。
そう認識した途端、罪悪感に襲われた。
緑色に照らされる真琴の、固く結ばれた口元ばかりが目に焼き付いている。
私が骨折したと聞いたはるかは『春の校内コンサートは見送って、秋の方に出よう』と言ってくれた。
しかし半年が過ぎても、私の指は思い通りに動かないままだった。もう治っているはずなのに、強ばってしまう。医師によれば『気持ちが体に追いついていない』らしい。お父さんや皆実先輩も心配してくれていたけれど、スムーズに動かせないままだった。
あの日部屋を飛び交った物は、ひとつを除いて全て無事だった。そのひとつとは、掛け時計だ。リモコンからの一撃と、トロフィーにぶつかった衝撃とで、針が動かなくなっていた。
お父さん曰く、簡単に直るらしいのだけれど、お母さんが「待って。まだ直さないで。真琴が私たちに話をしてくれるまで、この時計は直さずにそのままにしてほしいの」と言った。お母さんは寡黙だから、その理由は教えてくれなかった。いや、本当は言っていたのかもしれない。記憶はおぼろげだ。一連の出来事が、あまりにも衝撃的過ぎたからだろう。
十一月、秋の校内コンサートの日。はるかは、私の代理とあの曲を発表していた。長すぎる練習期間だったのもあり、ミスはなかった。
別に私は恨めしくなんてない。代理と演奏することを勧めたのは私だったから。それでもやっぱり悲しくて、涙ぐんでしまう。
「――最後の演奏が終了しました。ご静聴ありがとうございました」
放送部のアナウンス。生徒は席を立っていくけれど、私は立ちたくなかった。右手の退部届が、やけに重く感じるから。
「今、大丈夫?」
聞き慣れた声。後ろを振り向けば、皆実先輩だった。彼女は私の握るものを見ると、驚いた。
「千乃ちゃん、それ……退部届?」
「そうです、もう指は動かないし、長く弾かないでいたからどうせ鈍っちゃっているし、それに」
息を継ぐ。
「私、そんなに上手くもなかったでしょう?」
皆実先輩は悲しそうだった。
「良いんです、もう。諦めたから」
「千乃ちゃんっ……。あのさ」
まっすぐ、目と目が合う。皆実先輩は何かを思いついたようだった。
「この後時間ある?」
「届、出してからで良いですか」
もちろん、と皆実先輩はうなずいた。
「あの、ここって」
「天文室。あ、来たことなかったか」
古いドア。皆実先輩はそれを両手で引っ張る。ものすごく重そう。
部屋の中は暗くて、誰もいなかった。
ぱちん、と皆実先輩は蛍光灯をつけながら言う。
「はあ、寒くてやだねぇ。もうすぐ冬か。待ってて、暖房つけるから」
ストーブからぶおー、と音がする。
「狭い部屋だから、少し待てば暖かくなるよ。適当に座って」
そう言われ、私はオフィスチェアに腰掛ける。
「どれがいい?」
皆実先輩は小型の冷蔵庫を開けて、いくつかアイスを取り出してみせた。
「じゃあ、バニラので……」
私はようやく意味が分かった。皆実先輩は、気が紛れるように気遣ってくれているのだ。
「私、チョコミントにしよう」
暖かい部屋の中、やけに大きい熊のぬいぐるみに見つめられつつ、黙ってアイスをかじっていく。半分ほど食べると、皆実先輩は小さく言った。
「もしここが気に入ったら、入部しなよ。私、歓迎するよ」
皆実先輩のおかげで、私は天文部に所属している。
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