3.律――三島時計店
先ほどの昇降口にまで戻ってきた。俺はスニーカーを、千乃さんはコインローファーを手に取り、履く。
「日野君は自転車通学?」
「いや、電車通学」
「そうなんだ。自転車取ってくるから待っててくれる?」
千乃さんはぱたぱたと走っていった。俺は後ろからゆっくり歩いていく。スマホに表示されているのは午後四時。これならまだ余裕がある。
正門の手前の、駐輪場。水白学園では利用者は少ないのだが、割と小綺麗にされているようだ。俺が駐輪場へと追いつくと、千乃さんは鍵を開くところだった。
「そういえば、どうしてバイトしてるの?」
確かに水白学園は私立だから、アルバイトを許可されているのはごく一部だ。
「俺、小学校も中学校も公立だったし、親には公立高校行けって言われてたんだけど、どうしてもここに編入したくて。反対振り切ったもんだから、アルバイトして家に金入れろって言われてんだ」
「へえ」
俺と千乃さんは歩き始める。千乃さんの押す自転車が、シャーと音を上げる。
「ごめん、デリケートな話だとは思わなくて……」
「いや、金銭的にひどく苦しいというわけではないんだ。『稼ぐことがどれだけ大変か実感しろよ』って言われてさ」
なら、と千乃さんは言う。
「そんなに詰め込むのは何か理由があるの?」
「やりたいことが見つからないから……暇つぶし?」
「なるほどね」
いかにも腑に落ちた、という表情。
「あ、そうだ。千乃さんは、いつからこの学園にいるの?」
「初等部から。皆実先輩とはその頃からの腐れ縁なんだよ」
「いいな、それ。俺はそういう長い付き合いの人、いないからうらやましいかも」
「そう?」
すると千乃さんは自転車にまたがり、なんと手放し運転を始めたのだった。
スピードは上がり、俺は小走りでついていった。
「ただいま」
千乃さんは威勢良く扉を開ける。店内は薄暗く、定休日だというのも納得する。
「千乃か。おかえり」
眼鏡をかけた、痩せた男性が店内にいた。
「お父さん、電池交換やってくれない?」
「その子のか?」
千乃さんのお父さんと目が合う。なるほど父と娘、瞳の色がまったく同じだった。
「あ、はい。自分、千乃さんのクラスメイトです。定休日なのにすみません」
「いや、構わないよ。ちょっと見せて」
俺は外した腕時計についた汗を拭い、手渡す。彼は型番か何かを確認しているようだ。
「今日中にはできると思いますが、後で取りに来られますか」
彼女のお父さんは、一瞬で仕事モードになった。大人が仕事と私生活のスイッチを切り替える場面を見るのは初めてで、少しわくわくする。
「あ、それ私が明日学校で渡すよ」
千乃さんはすでに通学鞄を下ろし、店内の時計をはたきで綺麗にしている。
「でもお客様からの預かり物だから気をつけろよ」
「分かってる」
千乃さんはそれだけ言うと、掃除に戻る。
「受付用紙を書きますので、しばしお待ちください」
千乃さんのお父さんは店の奥の方へ用紙を取りに行った。
その間、俺はぐるっと店内を見渡す。どの時計も一様に小気味良い音を刻んでいる。キラキラした装飾の卓上時計、黒光りしている振り子時計、文字盤が見やすい目覚まし時計――。
掃除中の千乃さんは、並んでいる時計をずらしていく。すると、さっきまでは表に出ていなかった時計が姿を現す。
白い掛け時計だ。それは明らかに他とは異なった。針が止まっているし、文字盤を覆うガラスにはひびが入っている。
「千乃さん、それ何?」
聞いたら、ごく普通に教えてくれるだろうと思っていたのに――千乃さんはちょっと泣きそうな強ばった顔で振り返った。突然のことで、俺は動揺してしまう。
「え、だ、大丈夫……?」
千乃さんは困ったように苦笑いをして、それから軽くうつむく。
「すみませんお客様、お名前をこの欄に……って、どうした?」
奥から出てきた、彼女のお父さんは、千乃さんが下を向いているのに気づいたようだ。訝しげに俺を見やる。よそ者だから真っ先に疑われても仕方がない。いや、でも俺は無実なんだけど……!
違うんです、と口パクに近い小声で言って、首をぶんぶん横に振る。
「ごめん、お父さんも律君も。何でもない」
顔をあげ、きっぱりと言ったけれど、長い髪で表情は隠れていた。あの時計に気づいたお父さんは、「そうか……」と呟く。
すると彼はこちらに向き直った。
「日野さん、ですね? 受付用紙含め、時計に関してはお任せ下さい。申し訳ないですが、今日はお引き取り願えますか? 家の問題なので……」
何が問題なんだろうか?
何一つ分からずじまいで、俺は「帰ります」としか言えなかった。
ドアベルの音を境に、時計の針が奏でる音は聞こえなくなった。耳が敏感になっているのかもしれない。歩き始めると、町は音で溢れているのだと良く分かった。子どもの声、豆腐屋のリード笛、鳥の群れの羽ばたき、防災無線。
『こちらは・市役所です。四時・半に・なりました。良い子の・皆さんは・おうちに・帰りましょう』
もう四時半か。そろそろファストフード店へ向かわなくてはいけない。
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