2.律――天文室
昨日は深夜までレポートを書いていたので、いつもにも増して眠い。昼休みの喧騒を横目に、弁当を平らげたら速攻で机に突っ伏す。
「――電池切れてるでしょ、時計」
急に話しかけられ、驚いた俺はがばっと身を起こす。右を向けば、千乃さんだった。
腕時計を見て、一秒、二秒と待ってみる。目の錯覚ではなく、本当に針は動かない。
「昨日の朝さ、時計が止まってたから話しかけてみたんだけどさ。言うタイミング逃しちゃったの」
「そういうことか。何で話しかけられたんだろってずっと考えてた」
「あ、時計のこともあるんだけど――前さ、秋元涼の小説読んでたでしょ? 私、大ファンなんだけど、語れる相手がいなかったから……。時計が止まってたのを見て、話しかけるチャンスだなって思ったの」
秋元涼を知っている人がいるなんて! 知る人ぞ知る小説家なのに。
「それでも、人の時計なんて良く気づくね」
「私の家、時計店なんだよね。広町駅前にあるんだけど」
なら納得だ。もしかしたら電池交換も千乃さんの家に頼めるかもしれない。
「あの黒っぽいお店?」
「うん、それ。今日は定休日なんだけど、お父さんに交換してもらおっか?」
テレパシーなみの気遣い。いろいろな人と関わりがあるのも、千乃さんが親切だから頼られているのだろう。
「え、定休日だろ? 問題ない?」
「多分絶対大丈夫」
どっちだよそれ。
「ああえっと……電池交換って時間かかるかな」
今日はバイトのシフトがあるのでちょっと気がかりだ。
「んー、ものによるけど。何か用事あるの?」
「バイト。駅の南側の、ファストフード店」
千乃さんは少し思案する。
「あそこかぁ。じゃあさ、店に持ち込むときは一緒に来てほしいんだけど、交換が終わった時計は学校で返すよ。それでどう?」
「何から何まで本当助かる」
手を合わせて頭を下げる。それを見た千乃さんは小さく吹き出した。
「おっしゃ行きますか日野君」
帰りのホームルームが終わった。
「わざわざありがとう」
「いや、これからのお客様になってくれるかなーなんて魂胆が少しあるからさ」
千乃さんは目をきゅっと細めて笑っている。
教室を出て、歩く。昇降口の前に来た途端、千乃さんは立ち止まる。
「あ、ごめん。部室寄らしてくれる? 一瞬で済むから」
「いいよ。シフトは五時からだし、大丈夫」
そう言うと、千乃さんは北館へと方向を変えた。すれ違う人が減っていく。
錆付いた引き戸が見えてきた。
「千乃さんって何部?」
「天文部だよ。……今はね」
表情が陰っているように見えた。すると、千乃さんはその引き戸の前で立ち止まる。
「ここが天文部の部室」
半分ほど開いたドアからは、中が垣間見えた。人がいるらしく、物音が聞こえる。
「どした?」
女子の声がした。
「皆実先輩、私の消しゴム見ませんでした? 蛍光ピンクの」
千乃さんは部屋に入っていった。俺は入るのをためらい、そのままドアの前に立ち続ける。
「うーん、これかな?」
「そうですそれ! ありがとうございます」
「これ可愛いじゃん。珍しいし」
「でしょ、先輩?」
もしかしてこれは長引くのでは……。電池が切れていることを忘れ、ついつい左腕の時計を見ようとしてしまった。
すると、先輩は俺のことに気がついたようだ。
「あの子知り合い?」
「ええ。クラスメイトで……。あ、いけない。待たせちゃってる? 入って良いよ」
「分かった」
天文室はごちゃごちゃしていた。本当に天文部に関係がありそうな物は隅に追いやられている。咄嗟に目に付くのは、巨大な熊のぬいぐるみ、古い漫画雑誌の山、あとなぜか小型冷蔵庫。
「ようこそ天文室へ~」
千乃さんの先輩――上履きのラインの色からして高等部三年生――は回る椅子に腰掛け、アイスをかじって俺を迎えた。チョコミントのツンとした香りが鼻をくすぐる。
「君、部活はどこ?」
先輩はぐるぐる回転するのをやめ、俺の方を見上げる。
「俺、空き時間はほぼバイトにつぎ込んでいるんです。部活なんてとても入れなくて」
「お、ちょうど良い。天文部入らない? ただいま幽霊部員を大募集中なんだけど」
「幽霊を?」
普通、真面目に活動する人を募集するはずなのに。
「とりあえず頭数だけ欲しいの。私はこの夏で引退しちゃうし。部費ゼロ円! 活動なし! 部屋は自由に使える! いかが?」
それに応じて千乃さんが言う。
「今、人数少ないから顧問に見放されそうなんだよね」
「ホント、あの先生なんなんだろ。人数ってそんなに大事かしら?」
そう呟いた先輩は首を傾げ、
「つまり、名前だけ貸してほしいってことよ」
と言った。
「良いですよ」
入部届なんていう紙切れ一枚で人助けになるなら構わない。
「やった!」
千乃さんは皆実先輩の手を取りぶんぶん振っている。お茶目な人だ。
レポートやら、腕時計やら――千乃さんにはお世話になりっぱなしだったから、何か役に立てるなら良かった。
「私は部長の橘皆実。君は?」
「日野律です」
「日野君か。今度入部届を渡すね。……そうだ、さっき『待たせてる』とか言ってたけど、大丈夫? 何か用事あるの?」
そう言ってから先輩は、はっとしたように言った。
「もしかしてデート……」
「わーっ、違いますから」
「ほんとかなぁ? 千乃ちゃん、嘘つかなくていいぞぉ?」
……こういう手の話は、仲が良いほどからかいがエスカレートするので、たちが悪い。
「本当に違います、昨日初めて話したし。今から千乃さんの時計店に用があるんです」
俺がそう言うと、先輩はにやにやしていたのをやめた。
「お、そっか。行ってきなよ」
「ええ。消しゴムありがとうございます。じゃ」
部屋を出て歩き始めると、中から先輩の声がした。
「日野君、幽霊部員の話、ありがとー」
俺も「いえーこちらこそー!」と天文室に向かって声を張り上げた。
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