クロノスタシス

文月柊叶

1.律――『チノ』

 七月上旬──水白みずしろ学園では期末テストが終わり、皆は夏休みを心待ちにする時期だ。高等部一年生は、まだ大学受験を考えるなんて気分ではない。

 机に突っ伏している俺は、夢と現実の間を揺蕩っていた。傍から見ればクラスに馴染めない人間か、『眠り猫』と呼ばれる、睡眠が趣味の人間か、の二択であろう。

 ずっと同じ姿勢でいるのも疲れるので、上体を起こす。ホームルーム前だというのに、いつもよりも空席が目立っていた。気のせいか?

 すると、教室後部から、良く通る声が聞こえて思わず振り向く。二つ結びだから……多分、学級委員の人?

「あ、明日レポート締切なんで! 明日のこの時間に回収しまーす」

 え? レポートって…………あ、地理?

 その人のすぐ隣にいた、ショートヘアの女子は若干不満げだ。

「はるかぁ、そういうのもっと早く言ってよお」

 ごめーん、と『はるか』はちろりと舌を出す。だって、あたし部活で忙しかったんだもん――。

 かしましいやりとりは、俺には眩しすぎる。ついでに、俺のレポートもまだ白紙なので眩しい。

 さてどうしようか。実を言えば、何も着手していない。……何らかの策を考えたかったのだが、眠気には抗えなかった。自然と体は机に突っ伏してしまう。

 五分でもいいから、もう一度寝たい。深呼吸をして瞳を閉じる。

「ねえ。あれ……おーい、日野君?」

 誰だろう、俺なんかに声をかけるのは。でも声の主は随分近くにいるようだ。とりあえず頭をもたげる。

「はいっ――え、えっと?」

 話しかけてきたのは隣の席の女子だった。席替えをしてしばらく経ったが、特に接点もなく話したことはない。

「あー……レポート終わった? 私半分ぐらいしかやってなくて。はるかは学級委員やるぐらいだし、あの子絶対書き終わってるよね」

「いや、半分ってだけで尊敬っすよ……俺、構想も何もやってないし」

 なんだか敬語じみてしまった。他愛もない感じで喋ろうとしているが、俺は一つ困っていた。

 

 机上の書きかけのレポートには端正な字で『千乃』とあるのが見える。しかし読み方が分からない。名字はちょうど手に隠れている。席替え前、彼女は席が前方で、俺は後方だった。そのせいでほとんど接点はなく、彼女が友人から名前を呼ばれるところですら聞いたことがない。

「わ、間に合わせなきゃいけないじゃん。レポートのネタ、いくつか挙げてたんだけど私のパクる?」

 俺が困っていることなんてつゆ知らず、彼女はにこにこしている。

「……お願いします」

「おっけい」

 がさごそと机を漁っているのを横目に、読み方について考えていた。

 『センノ』か『チノ』のどちらかか?

「あれ、このファイルに入れたはずなんだけどなあ。もうちょい待って!」

 もちろん、と俺は生返事をする。

 俺は昔から親には「名前を間違えてはいけない」と強く言われてきた。どうやら父親は、当時としては珍しい名前で、一発で正しく読まれたことがないらしい。――まあ、俺の母親が唯一読めたので父親は惚れ込んだ、という話も毎回聞かされるのだが。

 あ、そんな母親の名前は『シノ』だ。『シノ』がいるなら『チノ』もいるのではないか?

 結論らしきものにたどり着くと、彼女もレポートのネタを見つけたらしい。

「あった! 日野君、これ。パクっていいよ」

「ありがとう、助かるよ」

 B5サイズのルーズリーフには、レポートのアイデアが五つか六つ、書かれていた。さ、答え合わせだ。名前を聞くか。

「ごめん、名前の読み方って『チノ』さんであってる?」

「え?」

 口をぽかんと開けている。うそだろ、違ったか?

「わ、日野君って面白いね。あはは、そんなふうに間違われたの初めてだよ」

 名前を間違えられたというのに、彼女は笑っている。

「ご、ごめん」

「良いの良いの。ていうか、席替えしてから話すのは初めてだもんね。私はね、ゆきの。三島千乃ゆきの。読みにくい名前だよねホント」

 『ユキノ』……! 二択の選択肢にすらなっていなかったじゃないか。

「名前間違えるなんて、ごめん」

「やだな、別に良いってば。それに『チノ』でも良いよ」

「え?」

「ほら、『日野』と『チノ』の響きが同じだし」

 日野律。それが俺の名前だ。

 え、でもそんな発想で片付けるものなのか? これは『女子って良く分かんねえ』という一言に含めていいのだろうか。

「あのさ、うでど……」

「ホームルーム始めるぞーっ」

 千乃さんは何か言いかけていたようだが、担任の声に遮られてしまった。

 ひとまずホームルームが開始され、俺はさっきのやりとりを思い返す。

 コーヒーブラウンの長い髪、少し明るい瞳の色。目鼻立ちは整っている。凛とした姿なのに、口を開けば一気に弾丸トークが始まる。はきはき話して、時折身振り手振りが入る。

 初めて関わるようなタイプだった――三島千乃は。




 その後、千乃さんが何を言いかけていたのか尋ねようとしたが叶わなかった。

 彼女は随分忙しいようだった。他クラスの人から教科書を貸してほしいと頼まれたり、先生から何か分厚い茶封筒――あれは何だろう――を渡されたり、他学年の人から話しかけられたり。

 隣の席の人に話しかけるのが難しいなんて、なかなかないことじゃないか?

 まあ、わざわざ彼女から俺に言い直していないのだから、そこまで重要な話でもないのかもしれない。というか、それが妥当な気がする。しかし、そもそもの話、急に話しかけられた理由がよく分からない。言いかけていたことがこれに関係するのなら、何なのか知りたい気もする。

 俺は自室にてそんなことを考えながら、レポートの最後の行を埋める。着眼点が自分のものでない、ということを除けば割と良い出来なのでは……?

 忘れずに持っていけるよう、すぐさまバックパックに滑り込ませる。ストラップの鈴が、しゃらりと音をたてた。

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