第101話 理不尽!!(その2)

 そんなわけで、ERにも、自傷行為、あるいは自殺既遂で搬送される方もしばしばであった。その頃は、硫黄系入浴剤と漂白剤を用いた硫化水素による自死が流行(そんなん流行しなくてもよいのに)していた。複数の病院と、救急隊で行なうカンファレンスでは、硫化水素自殺を図った方に対応する救急隊員の大変な苦労を伺った。救急隊は、毒ガスで充満している室内に入らないといけないので、二次被害を防ぐため、防護服を装着するのも大変。患者さんもガスで汚染されているので、それによる二次被害も防ぐため、その部屋から患者さんのお身体を出してきても、救急車に載せるまでが大変。救急隊員ご自身が命の危機にさらされるので、本当に対応が大変だと話を伺った。そのような方は、すでに死亡された状態で発見されるため、死亡確認を行なうために当院ERへの救急搬送はなかったように記憶している。


 自傷行為、自殺行為としては、手首を切ったり、薬物をたくさん飲んだりということが多く、時には本気で自殺しようとしたのかどうかわからないが、醤油1升を丸呑みした、とのことで搬送された方もおられた。醤油1升は実際に命にかかわるので、しっかり対応したが、ERに到着時点で、ご本人が嘔吐され、多量の醤油を吐出、それでも、胃に残っている醤油の回収が必要と判断した。胃内の洗浄のため、太めのNGチューブ挿入時にも再度大量の醤油を嘔吐されたため、後はあまり慌てず、水道水で胃洗浄を繰り返し、排液の醤油色が本当に薄くなるまで長時間処置を続けたことを覚えている。その後は電解質異常followのため、ICUで1日管理、電解質異常の出現がないことを確認し、退院となった。


 薬物ではベンゾジアゼピン系睡眠薬のoverdoseが多かったが、これは基本的には、薬が切れるまで寝ておいてもらうこと、呼吸管理と誤嚥性肺炎に注意し、薬が効いて寝込んでいる間の誤嚥性肺炎の発症に配慮することが治療であった。

 薬剤部から活性炭とマグコロール(強力な下剤)を持ってきてもらい、NGチューブを挿入し、それらを注入して、後は念のため心電図モニタをつけ、一般病棟で管理、という対応だった。時には三環系抗うつ薬など少し厄介な薬のoverdoseもあり、その場合は同様に活性炭+下剤を注入すると同時に心電図モニターをつけ、不整脈などの出現に注意しながら、注意深い観察が必要であった。


 風邪薬を一瓶飲んだ、ということで搬送される患者さんもしばしば経験した。市販の風邪薬にはアセトアミノフェンという鎮痛解熱剤が使われていることが多く、この薬は適切な量であれば、赤ちゃんにも妊婦さんにも使うことのできる安全な薬なのだが、過量服用すると、肝移植が必要なほどの肝障害を起こすことが知られている。アセトアミノフェン過量服薬による肝毒性から肝臓を守るためにはN-アセチルシステインという薬剤(元々は吸入用の去痰剤で、結構臭いが強い)の内服投与が必要である。

 アセトアミノフェン内服後の時間経過と血中濃度のノモグラム(グラフ)があり、基準以上であればN-アセチルシステインの投与が必要なのであるが、私の担当した「自殺目的での風邪薬大量服薬」の患者さんは、翌日には全員が強く退院を希望された。「内服したアセトアミノフェンの量によっては、致死的な肝障害を来すので、血液検査でアセトアミノフェン血中濃度が判明するまでは入院を継続してください」と伝えてもこちらの言うことには聞く耳を持たない。「命の危険があることを理解したうえで、自分自身の希望で退院する」との念書を取って退院、とせざるを得なかった(法で定められている医療保護入院、措置入院など以外では、本人の同意なく入院させることはできないのである)。


 本気で死にたい人は、有機リン系の農薬を飲まれる方が多かったが、これは気道確保し、可能な限り胃内を洗い、アトロピンを山ほど使って、薬の効果が切れるのを待つしかなかった。教科書的には解毒剤としてPAMが挙げられていたが、最近の有機リン系薬剤は、PAM無効のものも多かった。有機リン系農薬の内服による自殺企図は、既遂となることも珍しくはなかった。


 私は経験していないが、パラコート内服による自殺、というのも有名である。残念ながら、パラコートは極めて予後不良な薬剤である。しかも、飲んですぐ死んでいく、というのではなく、飲んだ後、数日の経過を経て肺が薬剤で回復不可能なダメージを受けるのである。その頃には、薬を飲んだ時に強く思っていたはずの「死んでしまおう」という気持ちも消えてしまっていることが多く、低酸素血症で「まだ死にたくない。苦しい、助けてくれ」と言いながら死んでいく薬である。確実に死ぬことができる薬であるが、自殺に使うのは絶対やめた方がいいだろう。


 糖尿病を持ち、インスリンを使用している方で、時々、自殺目的で大量のインスリンを打たれる方もおられた。これはこれで、冷や汗をかくことになる。


 初期研修医時代、「狩野内科」のホームグラウンド、3階西病棟のHCU(High Care Unit)に遷延性意識障害で30代くらいの方が長期入院されていた。栗岡先生に聞いたところ、インスリン600単位(新品のインスリン2本)を自殺目的に自己注射し、搬送された方だった。入院し、末梢から糖液を輸液したが、十分な血糖値を維持できず、低血糖状態が続いたため、脳に高度のダメージを受け、低血糖脳症による遷延性意識障害となったと伺った。


 なので、「大量のインスリンを注射した」という方が救急搬送された場合(数例経験した)は、注射したインスリンの種類(超即効型なのか、持効型なのか)を確認すると同時に、すぐに末梢から糖液を多量に投与しつつICUに入室。CV lineを確保し、そこから70% 糖液の投与を開始した。30分ごとに簡易血糖測定器で血糖を評価し、血糖値が少なくとも100を下回らない、可能であれば200前後にコントロールするように糖液の流速を調整して管理した。時にはびっくりするくらいの量でブドウ糖を補充しなければならないことも多かったが、CV lineからの70%ブドウ糖液投与で、自殺目的の大量インスリン自己注射の患者さんは、私が管理した方については一人も低血糖脳症にならなかった。しかし、これらの患者さんは必要があってインスリンを投与しているため、結局インスリンを処方しなければならない。

 「絶対に自殺をしないよう約束してください」と約束し、精神科医に紹介するが、やはり退院の時はヒヤヒヤしていた。


 さて、九田病院ERでもグループの理念に沿って、可能な限りそのような患者さんを原則受け入れていた。おそらく今も受け入れているのだろうが、一時期、病院やグループの方針に逆らって、夜間のERを守る我々研修医たちの義憤で、精神的疾患を有する方の自傷行為、自殺企図の受け入れをやめたことがある。そんな非常識で、ひどい事件があった。


 鳥端先生がおられたころ、ERに自傷行為と過量服薬を主訴に搬送依頼があった。

 「数十の病院から断られている患者さんです」

 と救急隊からも報告があり、救急隊も非常に困っていたそうであった。なので鳥端先生は患者さんを受け入れた。手首の切創は縫合処置を行ない、ベンゾジアゼピン系薬の過量服薬に対しては、前述の通り処置を行ない、先生はご自身を主治医として患者さんを入院させた。


 患者さんは目を覚ますと、またすぐに自傷行為を繰り返し、刃物を取り上げても、家族や友人にメールでカッターの替え刃の差し入れを要求する。そして、またこれもおかしなことに家族や友人がせっせとカッターの替え刃を差し入れしてくる。そんなわけで自傷行為と、カッターの刃の没収を繰り返す、といういたちごっこになっていた。

 患者さんの精神的な興奮も強く、鳥端先生は精神科閉鎖病棟での管理が必要と判断され、その患者さんの主治医を含め、本当に多数の精神科病院に紹介状を送り、転院を依頼したが、どの精神科病院もことごとく受け入れ不可能、との返答だった。


 患者さんの興奮も非常に強く、このままでは精神運動興奮で体力が消耗し、興奮を抑えなければ生命の危機があると鳥端先生は判断、ベンゾジアゼピン系薬と、ブチロフェノン系抗精神病薬の持続点滴で、数日軽度の鎮静をかけた。

 その処置後は、患者さんは少し落ち着きをとりもどされ、またこれ以上の入院継続も困難とのことで退院とし、かかりつけ精神科医に受診、という対応を取られた。


 鳥端先生も、病棟もその患者さんに思いきり振り回されたのだが、その後、大阪府の保健行政担当の部署から当院に連絡があり、

 「貴院で人権を無視した薬剤鎮静行為を受けた、との申し出を受けたので、調査させてもらう」

 とのことだった。


 鳥端先生は府庁に呼び出されたり、診療経過について、弁明書のようなものを書かせられたりした。このことは近畿厚生局にも伝わり、様々な調査が入った。そして最終的な近畿厚生局の結論は

 「精神科医がいない九田記念病院でこの患者さんを受け入れたこと、その判断を行なった医師に大きな問題がある」

 との公式見解であった。


 私たちは、医師としての良心をもって、精神的な問題を抱えている患者さんに対しても、身体疾患での対応が必要であれば受け入れをしていた。しかし行政側は、

 「その行為は不適切な医療行為である」

 と断罪したのである。気持ち的には味方に背後から撃たれた気分であった。


 もちろん、総合内科のメンバーはみんな、大いに怒りを感じた。誠実に患者さんに向き合い、誠実に医療を行なった鳥端先生に何の非があろうか。


 しかも、鎮静をかけたのは、患者さんの命が過度の興奮で危険にさらされているからであって、精神的に問題のある患者さんの問題行動を抑制するためではないのである。


 私たちはグループの理念を理解し、自院の提供できる医療水準を把握し、法的背景の貧弱さを理解し、そのうえで誠意をもって救急の受け入れをしていたのである。散々他院から断られていたこの患者さん、私たちが受け入れなかったら、どこが受け入れていたのであろうか?また、実際に搬送病院が決まらず、世間で言われているところの「たらいまわし」状態にその時点でなっていたではないか!


 しかし、行政側は、そのような

 「受け入れするに適切な病院が見つかるまでは、患者さんが『たらいまわし』になっても仕方がない」

 という医療が、適切で適正な医療であると明らかに宣ったのである。


 故意による過量服薬や自傷行為については、大阪府の保健行政、そして、国の意向を伝える近畿厚生局とも、

 「九田記念病院で受け入れるのは不適切である」

 と我々に「有難くも」指導してくださったので、国や府が考えている適切な救急医療の在り方に沿うために、少なくとも私がERリーダーの時はすべて断るようにした。30件以上断られている、という遠方の地域からの過量服薬患者さんの救急搬送依頼も断った。理由は

 「国や府がそうしろというから」

 という理由である。当初に記載したとおり、医療と法律は密接に関連しており、また医師の仕事も医師法に記載の通り、

 「医業を掌って、国民全体の公衆衛生の向上に帰する」

 ことが目的であり、

 「病気で苦しんでいる個人を助けること」

 とは規定されていない。なので当然、

 「国民全体の公衆衛生の向上のための施策を打ち出している」

 はずの国や府の指導に従う必要があるからである。


 府の医療行政にかかわる人の中には、地域の医療を支えることを目的とした自治医科大学の出身者も多いのだが、如何せん、大阪には本当の意味での「医療過疎地」は少なく、大阪府出身の自治医科大学卒業生は、このようなドロドロした臨床の現場を見ることもあまりなく、行政に取り込まれているので、現場のジレンマを理解できないのであろう。厚生労働省の医務技官については、その職につけるのは医学部卒業後5年以内(私が医学生当時)で、医務技官の職を得た後、希望すれば臨床研修は受けられるのだが、東京都の名門 虎の門病院での研修であり、やはり、このようなドロドロの症例を見ることはないのであろう。


 行政と現場の解離、立法府と臨床現場の解離、司法と臨床現場の解離のいずれも大きく、深くて埋められない溝がそこにはあるように感じている。


 「大野産婦人科事件」のように、標準とされている治療を行なったにもかかわらず患者さんが死亡した場合には、まるで極悪人であるかのように逮捕、その現場をセンセーショナルに報道される。しかも結局本件では医師は無罪となった(当たり前)が、無罪判決の扱いにはマスコミはわずかしか触れなかった。日本産婦人科学会がこの事件に対して強い声明を出したが、テレビでは報道されず、新聞の隅っこの方に取り上げられただけであった。

 センセーショナルな報道をしたマスコミも、見せしめのように外来診察中の診察室で医師を逮捕する警察(しかも逮捕した警察官は、表彰されている)も、その自分たちの行為に対して強い反省の意がなければ、最終的には医療は崩壊してしまうであろう。

 「立ち去り型サボタージュ」

 という言葉が一時、医療界を席巻したが、このようなことが繰り返されれば、本当に自分が医療を必要としたときに、医療従事者は医療現場にはいなくなっており、必要とする医療を受けられなくなるのである。現実に、外科医不足は深刻となっており、さらに外科医が減少すれば、確立した治療法のある疾患でも「治療できる医師がいない」ために治療できなくなるであろう。


 医師や医療従事者をことごとく殺して、国の医療を破壊したカンボジアのポルポト政権下での公衆衛生がどのような状態になったのか、知らないのであろうか。


 どうも日本の人たちは、そのような公衆衛生状態を作っていることに気づいていないのであろう。声の大きな人たちの意見だけが通れば、声を上げることもできず、現場で歯を食いしばって頑張っている人はつぶれるほかないのである。そして、現場で歯を食いしばって頑張っている人たちが、日本の医療を支えているのである。それを忘れないでほしい。



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